天使の声

平成16年01月01日

 何の脈絡もなく、遠いむかしのことを思い出しました。息子の順平は現在二十歳で、ロボットのような動きのダンスに夢中ですが、彼がまだ五歳の夏、家族で日間賀島にでかけたことがありました。水着になった順平に浮き輪を持たせると、彼は喜んでどんどん沖に向かって泳いで行きました。

(おやまあ、恐いもの知らずめ…)

 海は危険区域とはテトラポットの境界で区切られているから安心です。私は砂浜に陣取って缶ビールを開けました。照りつける太陽、焼け付く砂、冷たいビール、目の前に広がる大海原…。時折、お父さ~ん!と手を振りながら、私の遺伝子を持つ少年が無邪気に遠ざかって行く様子は、夏の陽射しに負けないくらい幸福な光にあふれていました。

(人生には色々なことがある。くじけるなよ。たくましく生きて行け!)

 ビールを三缶空けてすっかり気分の良くなった私は、ゴロリと横になりましたが、そのとたんに突然激しい不安に襲われました。

 浮き輪はスーパーで買った安物です。順平は泳げません。そして海は、大人の足さえ全く届かない深さなのです。

 もしも途中で浮き輪が破れたら…。

 もしも途中で空気が抜け始めたら…。

 いかん!助けねば!

 どうしたの急に、というカミさんの声を尻目に私は海に飛び込みました。息子に向かって懸命に泳ぎました。アルコールが急激に血中を巡りました。やがて心臓が、そこだけ別の生き物のように、恐ろしい速さで脈を打ち始めましたが、引き返すわけにはいきません。というよりも、今となっては岸に戻るよりテトラポットに向かって進む方が近いのです。ところが順平との距離が縮まりません。理由を知って私は愕然としました。何と息子は面白がって私から逃げてゆくのです。

「順平!」「順平!」

 助けてくれと言おうとして、はっとしました。私は息子を助けに来たはずです。

 体力が限界を迎えていました。

 呼吸と鼓動と泳ぎのリズムがばらばらになり、二度三度海水を飲んで激しくむせると、シャッターが閉じるように一瞬目の前が真っ暗になりました。あと少しで手が届きそうな距離を保ったまま、順平は近づいた分だけ遠ざかっては笑っています。こうやって死ぬことがあるのだと思った時、

「順平、そっちにはクラゲがいるぞ」

 ひどく冷静な口調で勝手に嘘が飛び出しました。クラゲの大嫌いな順平があわてて近寄りました。私はすかさず浮き輪につかまって九死に一生を得たのでした。

 今でもふと、息子が笑いながら遠ざかってゆく時の残酷な恐怖を、脈絡なく思い出します。そしてあの時、私の口を借りてクラゲがいると勝手に嘘をついたのはいったい誰なのだろうと、不思議な気持に打たれるのです。