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見えないもの、見ないもの
平成16年04月21日
朝起きて、いつものように眼鏡をかけた私は、そのとたんに危うく卒倒しそうになりました。空中におびただしいホコリやバイ菌が漂っています。目を移せば、まくらといわず布団といわず、奇怪な姿のダニの死骸が転がっています。尻尾を振りながら散歩をせがむララという名のパピヨンのからだにも無数のノミが見え隠れしています。いいえ、そういう私自身の手のひらにだって得体の知れないバイ菌がいっぱい付着しているのが、くっきりと見えるのです。慌てて眼鏡を外すと何もかも今までどおりなのですが、眼鏡をかけたとたんに再びぞっとするような世界が展開して、私は思わず息をするのをためらいました。とても吸えるような空気ではありません。しかし、息をしなければ死んでしまいます。どうすればいいんだ!と叫んだところで目が覚めました。私たちは、必要以上に小さなものが見えないことで救われていたのですね。
そう思い当たってみると、小さくはなくても、見えなくて救われているものがたくさんあります。
ゴキブリが横行する深夜の厨房が見えないから、私たちは美しく盛り付けられた懐石に舌鼓を打って平然としています。なりふり構わず着替えをする楽屋の様子が見えないから、私たちは豪華絢爛な歌舞伎の舞台に胸弾ませて拍手を送ります。屠殺の惨状が見えないから、私たちはレアに焼いた霜降りの牛肉を口に運んで微笑みを浮かべます。鋭く切り裂かれる患部が見えないから、私たちは手術台の上に横たわって心静かでいられます。奥の院に鎮座するご神体が見えないから、私たちはかしこみかしこみ神前に額づいて、かしわ手を打ちます。湯に浮いたアカや大腸菌が見えないから、私たちは露天風呂でざぶりと顔を洗ってのびのびと手足を伸ばします。うどん屋のお婆ちゃんが用を足した後の手を洗う様子が見えないから、私たちはふうふうと湯気を立ててキツネうどんをすするのです。
こうして数え上げて行けば切りがありませんが、見えなくて救われているものの筆頭は、何と言っても人間の心ではないでしょうか。
「合格おめでとう!早稲田大学に現役で合格だなんて、さすがは優秀な息子さんよね」
と祝福する笑顔とは裏腹に、
(無理してレベルの高い大学へ入れば、ついて行くのが大変よ。挫折するに決まってるわ)
とつぶやくもう一つの顔が見えないから、
「ありがとう。まぐれでも合格してくれて助かったわ。とても浪人させる経済力はないものね」
などと謙遜していられるのです。
「入院されたなんて全然知らなくて慌てて駆けつけて参りましたが、お顔の色もおよろしいので安心致しました」
これはほんの気持ですからと、のし袋を差し出しながら、
(聞いたわよ。大したことないのに大袈裟に検査入院だっていうじゃない。それで五千円もお見舞い取られちゃたまらないわよ)
と悪態をつくもうひとつの顔が見えないから、
「あ、いや、わざわざお見舞い頂いて恐縮です。ご心配かけましたが、もう大丈夫ですから」
などとにこにこ笑っていられるのです。
このように、見えなくて救われているものがたくさんあるのだとしたら、見ない知恵というものがあってもいいのではないでしょうか。社会正義と知る権利と表現の自由の名の下に、これでもかこれでもかと人間の醜悪な部分ばかりを暴き立てることで成立している巨大産業が存在する以上、私たちの目にはスキャンダラスな映像が飽くことなく提供され続けることでしょう。政治家の汚職、教授の性犯罪、企業による不正の隠蔽、若者の反社会的様相、教育の崩壊、幼ないわが子への虐待…。総体としては少数の例が、少数であるがゆえに強烈なニュース性を持って、まるでそれが世の中の新しい趨勢であるかのように報道されます。通常では見えないものをテレビや新聞で連日見せつけられる私たちは、ちょうど夢の中でホコリやバイ菌まで見えてしまう眼鏡をかけた時のような気分になります。人間に信頼がおけなくなって、他人にやさしいまなざしが向けられません。それは同時に、他人からも暖かいまなざしが期待できないことを意味しています。社会はたくさんの他人で構成されているわけですから、他人との基本的な信頼が崩れれば、世の中は片時も警戒を怠ることのできない不安に満ちたもののように見えて来ます。夢を描く代わりにため息をつき、生き方が刹那的になって、心が刺々しくなってゆく傾向から免れようと思えば、時に、見なくてもいいものまで見えてしまう魔法の眼鏡を外す知恵が必要なのかも知れません。
終