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『砂の器』考
平成16年05月25日
本当に久しぶりに丹波哲郎主演の映画「砂の器」を観ました。今は亡き名優が思いがけない端役で出演していたりして、郷愁めいた懐かしさもひとしおでしたが、各駅停車のようにゆっくりと進行する物語の展開をもどかしいと感じる度に、結論を急ぐ電子レンジ時代の文化に毒されている自分を意識した二時間半でもありました。
ストーリーは単純です。
ハンセン病が「らい」として恐れられていた時代、差別を恐れて故郷を捨てた、いわゆる「放浪癩」の父子がいました。「無らい県運動」とやらで、行く先々で冷たく追い払われながら物乞いの旅を続ける父子は、「亀嵩」という場所で行き倒れ、三木という名の親切な巡査と出会います。三木は、子どもの将来をこそ考えるべきだと説得して父親を療養所に収容し、子どもは自分が引き取ります。大八車に乗せられてゆく父親と、それを見送る子どもが目と目で別れを交わすシーンは前半の山場です。
しかし子どもはすぐに巡査の家を飛び出して大阪の自転車店に奉公に入り、気に入られて教育を受けます。やがて空襲で主人夫婦が死に、店も戸籍も焼失したのを機に、虚偽の申し立てをして戸籍を改竄し、青年は主人夫婦の子、つまり、癩とは無縁の新しい戸籍を得ることに成功し、東京で新進気鋭の音楽家としての地位を築きます。
一方、退職して悠々自適の暮らしをしていた三木元巡査は、思い立って金毘羅から伊勢を巡る一人旅の途中、映画館の壁の写真に目を留めます。写真には大物政治家とその娘と、娘の婚約者が映っていたのですが、その婚約者こそ立派な音楽家に成長したあの時の子どもの姿だったのです。三木元巡査は予定を変更して東京に向かいます。あれ以来、療養所と頻繁に書簡を交わし、息子との再会を心待ちにしている父親の気持を知っているだけに、何十年ぶりかの父子の対面を何としても実現させてやりたかったのです。ところが、連絡を受けた息子の方は困りました。らいの父親を持ち、しかも戸籍を改竄した事実が世間の知るところとなれば、音楽家としての地位はおろか、婚約まで破綻します。
「何で会わねえ。あんなに可愛がってくれた父親じゃねえか。おれは首に縄つけてでもおめえを療養所に連れて行っからな!」
という一言が三木と音楽家の運命を変えました。三木は蒲田の操車場で無惨に頭を割られた遺体となって発見され、音楽家は晴れがましく新曲の発表会に臨むのですが、「カメダ」という目撃者の一言を手がかりに執拗な追跡を積み重ねた丹波哲郎の捜査の手が、過去を暴き、とうとう逮捕状を取りつけてコンサート会場に延びて行く…という内容です。「宿命」と名づけられた作中の新曲が、そのまま映画の主題のようにラストシーンを飾る演出は名作と言われる所以ですが、さて、私たちはこの作品を通じていったい何を学ぶのでしょうか。
らい予防法を成立させて、国家規模でハンセン病患者の人権を踏みにじった無知と無関心について思いを馳せるのは当然ですが、私は、映画の中では人間の良心そのもののように描かれている三木巡査の正義感について疑問を抱くのです。もしも三木が息子に会いに行かなかったら、三木は殺されず、息子は殺人の罪を犯さず、音楽家としての才能はさらに大きく社会に貢献したことでしょう。たとえ会いに行ったとしても、首に縄をつけてでも引っ張って行くなどと強引な態度に出ず、息子の意志を尊重していたら悲劇は免れていたかも知れません。戸籍の改竄についてまでは想像の外であったとしても、息子の氏名が以前と異なっていることから推して、それなりの事情を察することはできたでしょう。らいに対する根強い偏見の残る中、有名な音楽家として活躍する息子に、過去を全て知っている自分が連絡を取れば、それがどんな困惑をもたらすか、三木には十分想像することができた筈です。映画では、丹波哲郎が成長した息子の写真を持って療養所の父親に会いに行きます。父親は苦悩に満ちた表情でこんな人物は知らないと否定して号泣します。社会的成功を収めた息子にとって、面会どころか自分の存在自体が決定的な不利益をもたらすことを父親は知っていたのです。残念ながら三木には、そこまで考えが及びませんでした。かつて自分の手で父と子を引き裂いたことに対する後ろめたさと、ひと目息子に会うことだけを楽しみに療養所生活に耐える父親への同情心と、何をおいても子は父に会うべきだという元警察官らしい一面的な正義感が、自分の行動の及ぼす深刻な影響を省みる冷静さを失わせていたのです。
考えて見れば、乞食の父子に並々ならぬ好意を寄せて父を療養所に収容し、子どもを引き取ったのは三木巡査の厚情と正義感でした。
父と子の数奇な物語は、三木の正義感で幕を開け、三木の正義感で幕を引きました。三木は三木で、そうしなければいられなかった過去と状況を背負っていたのであろうことを考え合わせると、「宿命」という曲の題名に大変な意味が込められていることが解ります。
私は映画を観終わって、他人の運命に介入することの恐ろしさを改めて思いました。たとえ正義感からであるにせよ、他人に自分の意志を押し付けることの罪について考えました。人は道で挨拶を交わすだけでも相互の人生に影響を与え合っている存在なのでしょうが、だからこそ他人の代わりに考えたり、他人を自分の思い通りにコントロールしようとすることは厳に戒めなくてはなりません。関わらないということでは決してなくて、誰が決めるべき事柄であるかという判断だけは誤らないようにすべきだと思うのです。世の中の悲劇のかなりの部分は、その判断を間違ったところから発生しているのです。
もっとも音楽家は、三木がどんなに穏やかに接近したとしても、自分の過去を知る元巡査を殺害したかも知れません。ハンセン病にまとわりつく強固な偏見と、それゆえに人間を信頼する環境を与えられないまま幼少期を送ってしまった少年の心は、私にそんな結末を想像させるほど救いようのない闇を形成しているように思うのです。
終