追憶(あだ名)

平成16年06月12日

 私が中学に上がる頃、テレビは柔道ものの全盛期でした。「柔道一代」、「姿三四郎」、「柔道一直線」、「柔」…。何にでも簡単に影響を受ける私は、全く迷わないで柔道部に入りました。柔道そのものよりも、黒い学生服に真っ白な柔道着を担いで登校する姿にあこがれていたのです。初日、部員たちが道場に揃うと、先輩が私に顧問の先生を呼んでくるように命じました。まだ先生の名前を知らない私は職員室に行き、教えられたとおり、

「熊田先生!部員揃いました」

 張り切って大声を出すのですが、誰も振り向きません。

「熊田先生、柔道部員揃いました!」

 再度大声を出すと、教員の中でもひときわ大柄の先生が立ち上がり、

「おれは竹田だ!」

 ヒゲ剃り跡も青々とした、まるで熊のような顔が睨みつけました。熊田というのは、竹田をもじったあだ名だったのです。

 一年生の時担任だった若い男の先生は、前歯が二本、ネズミのように目立っていたために、「チュー太」と呼ばれていました。四十代になった私に教育委員会から講演依頼があって、主催者の偉い人と事前に打ち合わせをした時のことです。講師のプロフィールの関係で話題が私の出身地に及ぶと、

「ちょっと待ってくださいよ。昭和二十五年生まれで八幡中学校ですか…。私、その頃たぶん新任の教員で同じ中学にいましたよ」

 と身を乗り出した偉い人のよく目立つ二本の前歯が、三十年以上も昔の記憶を一瞬にして蘇らせました。

「チュー太?」

 思わず指をさして、これは失礼しましたと恐縮する私に、

「あの学校ではそう呼ばれていました」

 前歯以外は体型も頭髪も当時の面影を全く留めない年老いた佐藤先生もまた、目の前の教え子の変貌ぶりに驚いていたのです。

 本名は忘れてしまっても、あだ名は覚えているものです。「ギーパー」という理科の先生のあだ名は、意味不明のまま代々受け継がれたものでした。「がたま」と呼ばれている先生もいましたが、これは恐らく歯並びが乱杭でガタガタだった印象からついたあだ名です。豹のように精悍な目をした英語の先生は「チータ」と呼ばれて恐れられていました。三年生の時の担任は、プロレスラーのトニーマリノに風貌が似ているために「マリノ」というあだ名がついていました。

 クラスメイトのあだ名となると多彩を極めていました。秀樹という立派な名前の同級生も「ヒジキ」と呼ばれて返事をしていましたし、隆二は「リウマチ」と呼ばれることに抵抗はなさそうでした。若いのに「オジン」と名づけられて泰然としていた仲間は、三十年ぶりに会った時には立派なオジンになっていましたし、親友は卒業してからもなぜか「ボン」と呼ばれていました。「キューピー」は今では押しも押されもしない寿司屋の大将ですし、「カマキリ」はホームページでは「どんちん」と名を変えて放射線技師をしています。「サル」「エテコ」「タマネギ」「アカ」「ビーバー」…と記憶をたどって行けば、容赦のない命名ぶりに脱帽するばかりですが、気がつくと教員にも学生にもあだ名のない一群がいます。これといって特徴がなかったり、わずかに親しめなかったり、あだ名で呼べば妙に傷つきそうだったりと、その理由は様々でしょうが、あだ名がないという事実そのものが、その人間の何かしら淋しい一面を表しているような気がしてなりません。そして私自身は小学校から大学まで、一度もあだ名をつけられた形跡がないのです。