生活のデジタル化

平成16年06月21日

 私はデジタル時計が苦手です。特に壇上で講演をしている時などは、残り時間があと何分あるかを知ろうとしても、デジタルだと計算をしてみなければ解りません。生来計算の苦手な私が計算に能力を裂けば、肝心な話しの内容がおろそかになってしまいます。

 そこへ行くと、アナログ時計の場合は明瞭です。話し始めた時点の長針の場所を記憶しておけば、針の移動距離を想像するだけで残り時間を鮮やかに実感ことができるのです。

 デジタル時計はプロセスを省略して分刻みの現在時刻だけを数字で表示します。本来の定義は別として、結果だけをパッ、パッと鮮やかに切り取って見せる方式をデジタルと呼ぶとすると、私たちの生活は間違いなくデジタル化しています。

 プロセスがない、連続性がない、という意味では、まずは職場が地域から切り離されました。たいていの人が、行ってきます…と家を出て、まったく別の場所で一定時間働くと、再び、ただいま…と戻ってきます。生活と労働がひとつところで混然と同居していた農業中心の暮らしぶりをアナログとすれば、サラリーマンの暮らしはデジタル化しています。私などは名古屋市というコンクリートの都市と、居住地の田園風景の間を行ったり来たりして生活をしていますが、名古屋の仲間は田舎での私の日常を知らず、田舎のご近所は名古屋で働く私の姿を想像する事もできません。

 職場といえば、給料もデジタル化されて銀行振込みになりました。かつてはボーナスが支給されると一目散に帰宅して、家族全員が揃った食卓で手の切れるような一万円札の束を得意げに見せ、その瞬間だけは一家の大黒柱であることを自覚したものでした。食卓にはいつもより少し豪華な料理が並んで、働く者の労をねぎらおうとする気持が伝わりました。そんな様相が、振り込みになってガラリと変わりました。一万円札の束は働く者の手元には届きません。代わりに配布された一枚の明細書を手に、

「おい、今日はボーナスだぞ」

 と胸を張れば、

「もちろんわかってるわよ。息子の学費をさし引いて、生命保険料をまとめて払って、固定資産税を振り込んで、車の修理代を支払ったら、残りはわずかになっちゃった」

 あ、あなたにもお小遣いあげなきゃねなどど言われて、ありがとうと頭を下げる立場に転落してしまった自分に気がつくのです。

 非行少年の施設に勤務していた頃にはデジタル化した社会の不合理を改めて思い知りました。児童福祉施設とはいえ、自由を制限された生活に耐えられない彼らは、よく施設を抜け出しました。脱け出した彼らは「直結」という方法で始動させた他人のオートバイを乗り継いで逃げました。そして、たいていはいくつかの罪を重ねたあげく、再び施設に戻って来ることになるのですが、この間の一連の過程が彼らにとっては不連続…つまりデジタルだったのです。つかまえるのは警察官、事情を聴くのは調査官、裁くのは裁判官で、指導するのは施設の職員です。一人の少年に複数の大人たちが関わって「事件」の処理が進みますが、オートバイを盗まれた被害者と直接対面することはありません。

「大切なオートバイをいったいどうしてくれるんだ!」

 犯した罪の唯一の結果である被害者の怒りに触れることもなく、立場や職業の異なる大人たちとの場面をパッ、パッとやり過ごす技術を学習することは、少年たちの心を更生に向かわせるどころか、致命的な欠陥を加える効果しか持たなかったように思います。デジタル化した社会は総じて人間性を蝕む方向に傾く気がしてなりません。

 ニュース番組は、悲惨な事件や事故を報道したあとで、「ではスポーツです」と明るい顔で松井の活躍を紹介します。学校で事件が起きると、報道陣が取り巻いて子供たちに感想を無理やり言葉にするよう強要し、スクールカウンセラーが突然心のケアを始めます。

 生活のデジタル化…。

 もともとがプロセスそのものである「人生」というドラマを、こま切れに味わう傾向が強まれば、何かしら、いのちの本質から離れてしまう不安を感じるのは私だけではないでしょう。縁側に座って、ひたすら時という海面に浮かんでいる老婆のように、せめて週に一度くらいは、ただ「在る」ことに充足する時間を持たなければと思うのです。