リアリズムの副作用

平成17年01月27日(木)

 五十四歳になって、ふと昔のことを考えるようになりました。我が家にテレビがやって来たのは小学校の三年生の頃だったなあ…なんて。新聞広告を見て突然懐かしさにかられ、当時のヒーロー番組のビデオを通販で買いました。月光仮面、怪傑ハリマオ、隠密剣士…。正義の味方は、どんな窮地に立たされても、くじけることなく敢然と悪と闘い、悪者は最後まで邪悪な人間として滅んでゆきます。正義も悪もひとつ心に同居させて、綱渡りのような日常を送っているのが我々人間の姿ですから、随分と浅薄なストーリーだと言わなければなりませんが、久しぶりにビデオを見て、待てよ…と思いました。勧善懲悪の構造は今も放送されている水戸黄門や暴れん坊将軍と変わりませんが、私たちの年代はあれが全てで、火曜サスペンスも土曜ワイド劇場もありませんでした。しかも私たちはあれを小学校の三年生になってようやく見たのです。パンッとおもちゃのようなピストルで撃たれれば、ウッと胸を抑えて人が倒れました。刀でひと撫ですれば、着物も切れず血も流さないで侍が死にました。もちろん映像は白黒です。リアリズムのかけらもありませんが、それで死んだことにしましょうという約束事の上に「お芝居」が成立していたのです。

 それに引き替え、現在の二時間ドラマはどうでしょう。後頭部を大理石の置き物で殴られた美女が、黒々と床を這う血の海の中で、うらめしそうに目を剥いて事切れます。腕を切り落とされ、ぬかるみをのたうちまわって苦しむヤクザ者の胸に、とどめの刃が突き立てられると、彼は全身を痙攣させて息絶えます。毒殺も扼殺もビルからの転落シーンも、そのリアルさは昔のドラマの比ではありません。それが子供たちの目に触れるのです。ブラウン管の中とはいえ、幼い頃からリアルな殺人シーンを日常的に見て育った世代と、小学校の三年生になってようやく月光仮面を見た世代の内面世界には、質的な隔たりがありはしないかとこの頃しきりに思います。

 映像は思考ではなく体験です。体験は、そのことに対する感情の垣根を一挙に低くします。現実の人間の死は、白い壁の中に隠蔽して視界から遮断されている一方で、凄惨な殺人の映像を幼い網膜に焼き付けながら成長する子供たちの心は、感情面でどんな傾きを持つでしょう。視覚や聴覚は脳を直撃します。その影響は一旦胃で溶けてから効く薬物の比ではありません。いい子に育てたいというのが親の共通の願いだとしたら、まっさらな幼子の脳に目を背けたくなるような映像を送り続ける大人たちの行為は矛盾しています。表現の自由という旗の下に無節制に配信される映像電波の刺激と量は、受け取る側の選択に委ねられる限度をはるかに超えています。人間の行動は社会的なものですから単純には言えませんが、若者が引き起こす昨今の事件の背景には、ベースにリアリズムの副作用が存在している気がしてなりません。しかし、そういう映像を流し続ける側の中心には、素朴なドラマを見て育ったはずの月光仮面の世代がいるのだと思うと、結局は我々団塊の世代の心を無軌道にさせているものの正体を見極めなくてはならなくなって、私の思考は果てしない堂堂巡りを始めるのです。