中国の旅2(曲阜)

平成17年04月22日(金)

 案の定、出発が四時間遅れた影響で、その日のうちに国内線で済南まで飛ぶ計画は崩れ、私たちは北京で一泊してから再び機上の人となりました。翼に山東航空と書いた飛行機が済南空港に降り立つと、迎えに来てくれていた小型バスに乗り移り、曲阜という町にある孔子廟に向かったのですが、まずはこの間の交通事情について紹介しないではいられません。片道三車線、四車線が当たり前の広い道路には中央分離帯がなく、車やバイクが、自転車や馬車やリヤカーや歩行者を蹴散らして猛スピードで走って行きます。そして、一見しなければ信じがたい光景ですが、反対車線にある店に行こうとする者は、車といわず人といわず、対向車の流れを横切って広い道路を渡り切るのが当たり前になっているのです。自分の身は自分で守る。安全は自己責任です。やたらとクラクションを鳴らすのはマナーの悪さではなくて、危ないから気をつけろという警告なのでしょう。ボタンを押して歩行者が横断歩道を渡り切っても、しばらくは赤のままの信号に従ってじっと停車しているわが国のドライバーとはネコと犬ほどの違いです。そういえば、前の車にクラクションで発進を促して刺された事件がありましたが、こんなことでいちいち人を刺していたら、中国の道路は連日血の海になることでしょう。この辺りにも何やら重大なお国ぶりの違いがありそうです。

 冒頭に書いたように、曲阜は孔子の故郷です。風が吹くとほこりが舞う乾いた通りの賑わいに馬の姿があるために、西部劇の町並みを連想してしまいます。リヤカーを停めて道行く人に果物を売る老婆の表情は、高山や輪島の朝市のおばちゃんと変わりません。その町の中心を高々と塀で囲って孔子廟はありました。いえ、今や世界遺産である孔子廟を中心に町が成立しているのかも知れません。

 廟という言葉の印象から、日光の東照宮程度を想像していたのは間違いで、その規模たるや壮大なものでした。赤と緑を基調にした壮麗な大門をくぐると参道が延々と続き、両側に変哲もないみやげ物屋がこれもまた延々とテントを連ねています。はるかかなたに次の大門があり、それをくぐるとはるかかなたにまた次の大門があって、門と門の間の空間には大きな建物が木立を従えて配置され、これがまた延々と孔子の墳墓まで繰り返されるのです。墓に近づくまでにこれだけの距離を置くことによって、御霊の巨大さを知らしめようという意図なのでしょうが、だからこそ既存の権威の一掃を図った文化大革命の魔の手はこれを見逃さず、主要な石碑の中央にはおしなべて生々しい修復の傷跡が横断していて、手厚く先人を祭る民族の篤実さと、いとも簡単にかけがえのない文化遺産の破壊を試みる民族の愚かさの両方を今に伝えているのです。

 孔子といえば、その説くところが論語となり儒教となって、朝鮮半島にはほとんどダメージと言っていいほどの影響を与えましたし、わが国でも時代劇の侍の子は背筋を伸ばして「師曰く、学びてときにこれを習う、またよろこばしからずや」と大きな声でやっています。私の書棚にさえ論語があって、聖書は読まなくてもこれは中学の頃に通読した記憶がありますから、確かに孔子は巨大な廟に相応しい功績を残した人物だといわなければなりません。そして、仁、義、礼、忠、信、孝、徳、道など、今も我々の心を揺さぶる数々の概念を世に送り出した孔子が、紀元前五百年・・・つまり、キリストが生まれる半世紀も前の時代の人であることを考えると、文明の進歩に比べて人間の精神の歩幅の小ささを思わないではいられません。日本人が竪穴住居に住んでいた時代に海の向こうで発生した思想のひとつとして満足にわが身に備わっていないことに思い当たった私は、ひょっとすると人間の精神は荒廃すらしているのではないかと考えながら、次の日程の泰山へと向かったのでした。