中国の旅4(天安門広場)

平成17年05月04日(水)

 世界遺産を巡る中国の旅の三日目は、振り出しの北京に戻って、まずは天安門広場の見学でした。バスを下りたとたんに私たちはまず、目の前に広がる茫漠とした空間に息を呑みました。とにかく『広い』という言葉の概念を再構築しなければならないほど広いのです。人間が集まるために都心にこれだけの空間を用意する中国という国に、得体の知れない生き物を見るような不気味さを感じると同時に、人間を集めるためにこれだけの面積を必要とする中国という国が何だか気の毒になりました。

 天安門広場といえば、民主化を求めて押し寄せた大量の学生たちを軍隊が鎮圧した大規模な流血事件の現場です。私が立っている真っ白な石畳も血で染まっていたのかも知れないと思うと、どうしても当時の様子が知りたくなって、

「天安門事件の時はどんなだったのですか?」

 日本語の堪能な女性ガイドに尋ねると、返って来た答えは思いもよらぬものでした。

「あれはこの国ではなかったことになっています」

「え?どういう意味ですか?国民は事件を知らないという意味ですか?」

「いえ、私は当時学生で事件の渦中にいましたし、インターネットの時代ですから今ではたくさんの人が知っていますが、それでもあれは正式にはなかったことになっているのです」

「世界中が注目したあれだけの出来事が、中国国内では報道されなかったのですね?」

「…」

「事実を知らせない政府を国民は信頼できるんですか?」

 あとは何を聞いても質問は完全に黙殺されました。その時の彼女の取り付く島のない表情をつい最近見たような気がしました。それが泰山の入り口で賄賂のやり取りに関する質問を無視した時のガイドと運転手と中国人の友人の顔であることに思い至って愕然としました。彼らは政府を恐れているのです。そう思ったとたん、目の前の見渡す限りの空間は、その先に聳え立つ人民大会堂…つまり国会議事堂への接近を拒む平らな城壁のように見えて来ました。遥かな白い石の広場を一人で大会堂に向かえば米粒のように無力です。しかし広場に負けないくらいの人数が大挙して近づけば鎮圧の対象なのです。それにしても、あったことをなかったことにしてしまうということは、なかったことをあったことにだってできるということでしょう。そう言えばかつて日本にもそんな時代がありました。『我が方の損害は軽微なり』という大本営の嘘を信じて国民は負け戦に突入して行きました。新聞記者はたくさんの事実の中から政府に許された記事だけを書きました。作詞家や作曲家は人々の戦意を鼓舞する歌ばかりを世に送り出しました。国家が強い意志と方向性を持って、引き返す訳にはいかない事情を重ねてしまった以上、言論統制を伴う恐怖政治はいつの世も国民を束ねる最も有効な手段なのです。開放路線とはいえ、一党独裁体制を維持する中国は、政府も国民もそんな時代をひきずって生きているのでしょう。

 時間の制約で人民大会堂も毛主席記念堂も中国国家博物館も外観だけの見学でしたが、天安門事件がなかったことになっているというその一事だけで、建物の中を支配する空気は想像がつくような気がしました。天安門広場の圧倒的な面積は、北京政府の権力の誇示であると同時に、複数の民族を抱えた広大な国土を一つの単位に束ね続けようとする中国共産党の苦悩の大きさの象徴でもあるように思うのです。

 毛主席記念堂の前で、茶色の軍服に身を固めた若い兵士が一人、直立不動のまま首だけを一定の速度で左右に動かしていました。その厳しい顔に見とれている私の傍らを、派手なブラウスを着たアメリカの中年女性が通りかかって兵士に明るく声をけました。

「オウ、ユー、スマイル、スマイル」

 もちろん兵士の表情に変化はありませんでしたが、国家というおのれを越えた存在に殉じる若者の痛ましい美しさに危うく魅せられそうになっていた私の心は、再び観光客の視線を取り戻したのでした。