中国の旅5(故宮・紫禁城)

平成17年05月07日(土)

 中国のいまを支配する天安門広場に隣接して、中国の過去を支配した故宮が、片側十四車線という大河のような道路で隔てられています。ニュースに必ず登場する毛沢東の巨大な肖像画は、過去の支配者の宮殿である紫禁城の入り口、つまり天安門から超然と現在を見下ろしていました。

 前回は天安門広場の広大さを紹介しましたが、広場の面積が南北八八〇メートル、東西五五〇メートルであるのに対し、紫禁城の敷地は南北九六〇メートル、東西七五〇メートルと、さらにひとまわり広いのですから、規模の大きさは想像を絶しています。それを高さ十数メートルの城壁で囲み、さらに周囲に幅五十二メートルの堀を巡らして、城は明・清時代の皇帝たちの安全を護り、権威を誇示していたのです。ちなみに紫禁城の面積は七十二万平方メートル、つまり七百二十六反ですから、敷地を全て耕して稲作を行ったとすれば、少なく見積もっても毎年四千三百五十六俵余りの米が収穫できる計算になります。一人が一年間に食べる米の量を百十キログラムと想定すると、何と二千三百七十六人を養える面積ということになります。こんなまどろっこしい計算をしなくても、単純に東京ドームがすっぽりと十五個入ってなお余りある広さと言った方が解りやすいでしょうか。あるいは東京ディズニーランドの一・四倍と表現した方が伝わるでしょうか。とにかく明の永楽帝は、西洋で言えばルネサンス期に、わが国で言えば南北朝の末期に、何と、大小九千余りの部屋を有する誇大妄想狂のような宮城の造営に着手し、十四年かけて完成させたのです。

 城は門をくぐる度に、赤い壁に黄色い屋根を乗せた重厚な建物が次々と展開して目にも鮮やかでした。門と言う呼称で呼ばれてはいますが、重量感のある瓦屋根を深々と乗せて、石段を遥かに上った高台に聳え立つ城郭ほどもある建造物です。それが赤黄緑の原色に塗り分けられて、壁といわず柱といわず天井といわず贅を凝らした絵画や彫刻で装飾されているのですから、見物客は一様に驚いて門を背景に写真を撮ります。しかし門をくぐった先には高台から見下ろす形で次の門に至る空間がはるばると開け、またしてもきらびやかな複数の宮殿建築が青空の下に燦然と威を誇っているのです。同じ明清時代に現在の様相が整ったのですから、構造は前述した孔子廟と基本的には同じですが、紫禁城は皇帝の宮城だけに規模と荘厳さの程度が違います。

 紫禁城が成立した頃、日本の頂点に立つ権力者が建てた建造物が金閣寺であることを思うと、大陸を制する者と島国の王のスケールの違いをまざまざと見せつけられる思いです。それどころか義満は、明王朝に国書を送って日本国王として承認を受け、盛んに勘合貿易を行ったのですから、卑弥呼の親魏倭王、大和時代の五王に続き、わが国が中国を宗主国と仰いで冊封関係を結んだ最後の時期に当たります。古墳や都市の建設などは別にして、わが国で紫禁城に匹敵する大規模な築城を行った権力者と言えば、太閤秀吉の出現を待たねばなりません。秀吉は大阪城築城に際し、人夫に十分な報酬を与えていたと言いますが、永楽帝は果たしてどうだったのでしょうか。城内の随所にほどこされた龍の装飾はこの国における最高権力を象徴しています。儀式所である大和殿、休憩所である忠和殿、科挙の試験が行われた保和殿、氷の上を滑らせて運んだという大理石の一枚板…。わざわざ龍などで象徴しなくても、工芸品も青磁器も黒檀を用いた家具調度も、考えて見れば一つとして権力の象徴でないものはありません。紫禁城は永楽帝からラストエンペラーである溥儀までの500年にもわたる強大な権力を、堀と塀で囲んで保存した博物館なのです。

 旅行記の冒頭で記したように中国の世界遺産を巡る今回の旅は、権力という名の不思議な現象を訪ねる旅になりました。人間が持つ欲望を集団の秩序維持のために統御する力を「権力」と呼ぶのだとしたら、単純にそれを悪と決めつける訳にはいきません。集団の構成員の民度が高ければ、権力は合理的なルールの周辺でなりをひそめていますが、個人的な欲望が無軌道に錯綜する社会の権力はむき出しです。時代は権力と民度が経済という海の上で均衡を保ったり崩したりしながら変遷して来たのです。変遷の度にひとつ前の権力の足跡は払拭されるのが通例の中で、消すこともできないくらい堅牢で巨大なものだけが破壊を免れて世界遺産になりました。皇帝の地下墳墓、西太后の避暑地、そして余りにも有名な万里の長城…。私たちはまたしても、権力が残したまだ見ぬ足跡を訪ねてバスに乗り込んだのでした。