ポッポ屋

平成17年05月08日(日)

 マスコミは、福知山線で起きた不幸な事故の報道でもちきりです。JR西日本の体質を厳しく問う論調の中で、事故を知りながら社員がボーリングをしていたという事実が明らかになり、さらには二次会で飲酒をした三次会で寿司を食ったなどと、追求はとどまるところを知りません。

「あの列車には二名の運転士が乗っていて、本社に事故の報告をしてるんですよ。今事故を起こした列車の中にいますってね。ところが本社は勤務に間に合うから出社するようにと指示をした。すると運転士は事故を目の前にしながら諾々と指示に従うんです。信じられますか?一般市民でさえ救助活動に従事しているというのに、これが人間の行動と言えるでしょうか。しかも、あれだけの事故に居合わせてショックを受けているはずの運転士に、会社は列車の運転をさせているのです。これではもう、我々はどの列車にも安心して乗る事はできません。分刻みの遅れに厳しいペナルティを課す管理的な体質が、平気で事故現場を立ち去る機械のような社員を作り出しているのではないでしょうか」

 キャスターは憤りを交えて一連の経緯を説明したあとで、JRには一刻も早くもっと人間的な会社に体質改善をしてもらいたいとコメントしました。

 しかし…と思うのです。

 鉄道マン、つまりポッポ屋は、自分を機械のように律することで世界に敢たる過密ダイヤを、かくも正確に運行し続けて来たのではないでしょうか。人影のない夜のプラットホームで、大声で指差し点検を行う鉄道マンの姿を見ると、私はペナルティに怯える非人間的な労働者の姿というよりは、陰日向なく職務に殉ずるポッポ屋の姿を見て胸が熱くなります。緊張がたわんでたわんで、金属疲労のように限界を迎えていたという状況もあったかも知れませんが、私たちが水や空気のように鉄道の時刻表を信頼し切っている背後には、分刻みのダイヤに身を呈する機械のような鉄道マンの努力があるのです。報道された範囲での印象ですが、列車に乗っていた運転士二人には自分の列車を運ぶ業務があり、それを待っているたくさんの乗客がいたはずです。勤務に就けという指示を、待っている乗客たちに対する誠意と考えれば、非人間的だというキャスターの非難は当たりません。乗客の中には、危篤状態の母親のもとに向かう一人息子がいるかも知れませんし、不渡りを出す寸前で取引先に急ぐ零細事業主もいたかも知れません。そんな乗客たちの目の前に正確に列車が到着する背景には、それこそ親が危篤でも、子供が病気でも、妻がお産でも、別の列車が事故を起こしても、指差し点検をしながら乗務するポッポ屋の、機械のような誠意があるのです。

 目の前で苦しむ人を置き去りにして勤務に就くのは非人間的だと憤る番組の画面に映し出されているのは、血まみれになって横たわる被害者たちの映像でした。カメラマンは惨劇の現地で救援活動に従事するのではなく、ファインダーを覗いていたのです。

 非人間的ではないのですか?

 その映像にかぶせて、もっと人間的な会社に体質改善をしてもらいたいと結ぶキャスターは、事故の報道が終わると何事もなかったかのように、

「ではスポーツです」

 と次のコーナーに進みました。

 非人間的ではないのですか?

 番組という単位を越えて局という枠組みで考えてみても、事故の当日、報道番組を流した同じアンテナから、惨事には相応しくないバラエティ番組がいったいどれだけ流れたことでしょう。

 非人間的ではないのですか?

「寿司だけですか!」

「もっと色々出てくるのではないですか!」

「何を反省しているのか、ちゃんと言葉にしないと伝わりませんよ」

 と舌鋒鋭くJRの幹部に詰め寄る記者たちは、その夜、

「ふう…。久しぶりに激しく追及して疲れたぜ。どうしようもねえな、JRは」

 などと言いながら、冷たいビールを飲まなかったでしょうか。

 JRを弁護する気は毛頭ありませんし、被害者やご家族の無念も察して余りありますが、ボーリングだ、酒だ、寿司だと、鬼の首を取ったようにあげつらうのは被害者に対しても礼を欠くような気がしてなりません。

「皆さんが悲しんでいる時に、職員はボーリングをしていたことが判明しましたが、どう思いますか? 」

 などとマイクを突きつけられるのは、私だったら耐えられません。ましてや、自分の悲しむ姿がひとしきりブラウン管に映ったあとで、悲しみを代弁してくれたはずのキャスターに、

「では、スポーツです」

 と明るく言われたら、裏切られたようなやりきれなさを感じるに違いありません。

 何が言いたいのか解らなくなりました。

 ただ、日本人の、特に子供たちの対人関係に関する誠実さが、もっと言えば社会に対する信頼が、年を追って希薄になってゆく最も大きな要因に、まるで神様にでもなったかのように容赦なく相手を糾弾したあげく、

「では、スポーツです」

 と切り替えられるマスメディアの在り方が深く影響しているような気がしてならないのです。