中国の旅6(頤和園(いわえん))

平成17年05月13日(金)

 大奥にあがった町娘が将軍にみそめられて男児を出産し、世継ぎ争いの渦中の人になるという話は日本の時代劇によくある設定ですが、世襲制を採る権力の府にはどこにでもあることのようで、清の時代の中国でも円明園と呼ばれる宮廷の庭園で歌を唄う十六歳の少女が皇帝にみそめられて紫禁城に上がりました。第五夫人となった彼女は、皇后に子どもがいなかったために、男児を出産したとたんに№2の地位に上りつめました。

 ちょうどその年に第二次アヘン戦争、つまりアロー号事件が起きて、彼女にとって思い出の地である円明園は英仏連合軍に占領破壊され、大量の財宝が略奪されます。

 その後、皇帝が病没すると、正妻である東太后を操って目障りな重臣たちを次々と葬り、やがてわずか五歳のわが子を即位させて、西太后として権勢を振るいます。

 ところが皇帝は成長すると東太后を慕い、東太后の推挙した女性を皇后としたため、実母である西太后との間で不和が生じました。不幸なことに皇帝は若干十九歳で頓死するのですが、梅毒とも天然痘とも言われる本来急死するはずのない病気で死亡したために、その死に西太后の関与が取り沙汰されることとなります。

 西太后は皇帝の後継に、まだ四歳にすぎない妹の子を即位させ、懐妊していた皇后を自殺に追い込み、さらに六年後には東太后を毒殺して、実質的な最高権力者として君臨しました。成長した皇帝は、いつまでも権力を手放そうとしない西太后の影響力を、憲法を制定することによって排除しようとします。すると西太后は皇帝を紫禁城の一室に幽閉し、一派を処刑してしまいました。二十七歳で幽閉された皇帝、つまり妹の子は、十年間を密室で過ごし、三十七歳で死亡するのです。しかも西太后は、皇帝が死んだその同じ日に当時三歳の溥儀を皇帝に決定して、翌日、計ったように七十四歳の生涯を閉じたため、ここでも皇帝暗殺の疑惑を持たれているのです。

 ちょうど西太后と皇帝である妹の子との関係が悪化する頃、お隣の韓国には東学党の乱という大規模な農民反乱の鎮圧を名目に日本が派兵していました。海軍力において危機感を募らせていた清国政府は軍艦三隻を建造する予算を計上していましたが、日本の軍事力を過小評価していた西太后は、こともあろうにそれを流用して、破壊されていたお気に入りの庭園の大修理を敢行したのです。

 円明園改め頤和園…。

 その後、日清戦争に破れ、義和団事件が起き、辛亥革命によって溥儀がラストエンペラーとして国を追われるまでの一部始終を頤和園は見ていました。私たちの目の前に広がる人工湖を中心とした優雅な世界遺産は、紫禁城同様、やはり権力という魔物が造り上げた美しくも哀しい風景だったのです。

 それにしても、一介の下級公務員の娘が殺戮を繰り返してまで半世紀にわたってしがみついた「権力」というものの実態は一体何だったのでしょうか。西太后は一体どんな欲望あるいは不安に駆り立てられて修羅のような人生を送ることになったのでしょうか。

 湖は謎を湛えて不透明でした。

 そして私たちは、次に訪ねる明清時代の皇帝の地下墳墓でもまた、さらに生々しい権力の歪んだ性格を目の当たりにすることになるのです。