新人類考

平成17年01月29日(土)

 JRの金山駅で中央線に乗り換えて鶴舞に向かう、わずか二駅の間のことです。ドア付近に立った私の目は、斜め前方のシートに座った若者の行為に釘付けになりました。若者は、膝の上に乗せた直径十センチほどの赤い円筒形の容器の中からクリーム状のものをすくい取ると、それを親指と人差し指の腹に馴染ませて髪の毛を丹念につまみ上げ、針山のようなヘアスタイルを作っているのです。満員ではないにしろ、座れない乗客もいる混雑した車内で、人目もはばからず髪の毛を逆立たせる若者の出現は衝撃的でした。若い女性が公衆の面前で化粧をする姿は珍しくもなくなりましたが、その文化が、いよいよ若い男性にまで及んだのを目撃した瞬間でした。若者の様子を、彼の反対側に座った営業マン風の青年が、ちらりちらりと盗み見ています。彼とて茶髪にピアスという今風の出で立ちながら、さすがに理解を超えているのでしょう。表情には当惑の色が隠せません。私たちのすぐ後ろには次々と得体の知れない世代が迫って来ているのです。

 ところがその日の帰り、岐阜駅の書店に立ち寄って数冊の文庫本を買った私は、レジで応対してくれた青年に全く別の印象を持ちました。胸に研修生の名札をつけた青年は、針頭の若者と同じ年代でしたが、その接遇態度が実に感じがいいのです。

 誠実な笑顔で、

「有難うございました。またお越しください」

 と送り出されながら唐突に思い出しました。私は高校生の頃、学校をサボって城山へ映画のロケを見に出かけたことがありました。悪友三人を誘い、登校してくる学生の流れに逆流して目的地に向かいながら、ロケが見たいという気持以上に、学校を無断で休んでみたいという衝動に駆られていたように思います。思春期を支配する自立の欲求は、親の持つ権威を否定し、所与の社会規範を破るという通過儀礼を経験しなければ実現しないものだとしたら、夏は学生服を着、冬になると半袖のカッターシャツで登校した級友の奇行も理解できます。当時はその程度のことで規範を破ったという実感を得られたのです。昨今は自由の範囲が広がり、規範が形骸化したために、手ごたえのある逸脱行為が見つかりません。大人たちが社会という名の鎧をまとって若者の前にきちんと立ちはだからないために、逸脱しても逸脱しても、低反発マットを押すように頼りないのです。成人式で暴れてみても、肌を限界まで露出してみても、全てはファッションに成り果てて、私が高校をサボッたほどの後ろめたさがないのです。

 思春期特有の逸脱行為は時代と共に変化します。電車で髪の毛を逆立たせることで、とにかくも衆人の顰蹙から自我を守る経験を果たした若者が、書店に就職をし、髪を短くカットして、

「有難うございます」

 とさわやかな笑顔を見せるに至っているのだと考えが及んだ時、私はようやく我々の後ろに迫っているのが得体の知れない世代などではなく、かつての私たちの姿なのだと思えるようになったのです。