のんきな国民でんなあ

平成17年07月02日(日)

 兵庫県の加古川市で仕事を終えた帰りのことです。山陽本線の西明石駅で乗り換える新幹線のチケットは手配されていましたから、時間にゆとりのない私は階段を一つ飛ばしで加古川駅のプラットホームに駆け上がり、天井の時刻表示を見て驚きました。確かに指示された時刻の快速電車はあるのですが、「神戸線」と表示してあるのです。

「あの…ここは山陽本線ではないのですか?」

 駅員が見当たらないので、通りかかったサラリーマン風の男性に尋ねると、

「どちらへ行かれますか?」

 反対に質問を返されました。

「西明石です」

「ならここでいいですよ」

「でも、山陽本線で快速に乗るよう言われてるんですが、ここは神戸線でしょ?」

 天井の表示を指差すと、

「あれ?本当ですね…。でも、西明石ならここでいいと思いますよ」

 男性は首を傾げて立ち去りました。

 不安になった私は、後ろに並んだ七十代の女性に同じ質問をしました。

「あら、本当に神戸線て書いてありますねえ。地元に住んでて、これが神戸線か山陽本線か知らないなんてお恥ずかしい限りですが」

 西明石なら間違いなく今度の快速でひと駅ですよ…と言ってる間に電車が着いて、二人は母子のようにシートに並んで座りました。

「それにしても気になりますねえ」

「はい?」

「いえ、これが山陽本線か神戸線かということですよ。私、家に着いたら調べて見ますから、あなたも駅員さんに聞いてみてください」

「この近くにお住まいですか?」

「三の宮です」

「と言うことは、震災は?」

「子供たちは東京だったので助かりました」

「家は?」

「全壊です。どないして逃げたか覚えていません」

「大変でしたねえ。時々怖ろしさがよみがえりませんか?」

「それがね、私たちの年代は他にも色々怖ろしい目に遭うてますから抵抗力があるんですね。案外忘れてしもてます」

「全壊した家は?」

「建て直しました。何とかいうややこしい法律の関係で、以前住んでた家より一回り小さくしなくてはならず、それが悲しかったです」

「もちろん地震対策は万全でしょう?」

「初めのうちはね」

「?」

「もう十年ですよ、あれから。家具も固定なんかしていませんし、食料の備蓄もいつの間にかやめました。あない大きな地震が済んだんや、そない何度も来るかいな…言うて」

 彼女は明るく笑うと、

「福知山線の列車事故も、しばらくはみな一番前の車両に乗るのん嫌がりましたけど、今は平気です」

 のんきな国民でんなあ…とつぶやきました。

 何でもすぐに忘れてしまうのんきな国民は、加害者であったことも被害者であったことも忘れてしまい、そんなに簡単には忘れないことを民族の背骨にしている近隣国家との間の温度差に苦しんでいます。どちらが幸せかという問題の他に、どちらが信頼されるかという問題があるのでしょうが、私はその時の、自分の力の及ばない事柄からは解き放たれているような女性の明るい笑顔が好きでした。

 西明石駅に着いて、

「もうお目にかかることもありませんね」

 と立ち上がると、

「どこかでばったり出会うかも解りませんよ」

 彼女は窓の内側から手を振ってくれました。

 新幹線のホームに駅員がいたので、神戸線のことを尋ねると、

「神戸線は通称です。山陽本線の一部ですよ」

 と胸を張って教えてくれました。