輪島の刺身

平成17年07月17日(日)

 非行少年の施設に勤務していた頃の話しは既に紹介しましたが、社会的要請もあって、当時は不登校を中心とした非社会的児童も寮を別にして生活していました。不適切なたとえの誹りを恐れずに言えば、オオカミの群れと羊の群れをひとつ敷地に住まわせるのですから、無謀といえば無謀な試みです。羊はオオカミの格好の餌食になりはしないかと心配しましたが、水と油が決して交わらないように、両者は接点少なく生活していたように思います。

 さて、Kくんという不登校児童の話しです。

 Kくんは、同級生と並ぶと頭ひとつ抜き出るほど大きな図体とは裏腹に、傷つきやすい小さな自我を持て余している中学生でした。恐らく人目を引く巨体のせいで幼い頃から嫌な思いをたくさんしたのでしょう。目立つことを極端に恐れるKくんは人前で発表ができません。他人に笑われたと感じるや、引きこもって一歩も外へ出られません。

 施設にも修学旅行があります。

 その年の旅行先は、石川県の輪島でした。

 夜明けを待ち構えていたように朝市にでかけて行った子供たちの中に、ひときわ目立つKくんの姿がありました。

 路上狭しとシートを広げた朝市には、民芸小物、野菜、菓子など、思い思いの品物を並べた露店がひしめき合って、軍手のような顔のおばちゃんたちが、柔らかい方言で客を引いています。わずかなお小遣いをポケットに物色して回る子供たちの中で、Kくんはどうやら新鮮な刺身に関心を抱いたようですが、引っ込み思案が邪魔をして声が出ないのでしょう。のっそりとした長身が、おばちゃんの目を避けるように店の前を行ったり来たりしています。私は少し離れたところでKくんの様子を見守ることにしました。

 目の前を何度も何度も通り過ぎては戻って来る体の大きな中学生に、

「おにいちゃん、お刺身どやな?」

 おばちゃんが声をかけました。

 Kくんが落し物を探すような仕草でうろたえたところへ、おばちゃんがさらに声を重ねました。

「どやな、安うしとくで」

 巨体がのっそりと店の前にしゃがみました。

 Kくんを前にすると、おばちゃんが小学生のように小さく見えました。

(しゃべれ!口を開くんだ!旅先で見ず知らずの人と会話をしてみろ!お前の中で何かが変わるはずだ)

 祈るような気持ちで息を殺す私の耳に、

「これ、いくらですか?」

 Kくんのくぐもった低音が聞こえました。

 その後のやりとりはわかりません。わかりませんが、値段を示す朝市のおばちゃんにKくんはポケットの中の金額を見せて岩のように黙りこくっているようです。

 おばちゃんが根負けしました。

 にっこり笑ったおばちゃんが、包丁を手に何か言いました。

 しばらく指を折って考え込んでいたKくんが、ぼそぼそと口を利いて顔を上げました。

 おばちゃんは、手際よくさばいた切り身をビニール袋に入れてKくんに差し出しました。

 Kくんは握りしめたおカネと交換に袋を受け取ると、

「ありがとう」

 晴れ晴れと立ち上がりました。

 ただそれだけのことです。

 その後、Kくんの小さな自我が劇的に改善したりすればドラマチックなのですが、現実は紆余曲折を経て少しずつ変容したに過ぎません。

 しかし朝市から帰った民宿の朝食に、児童にも教員にも薄く切った刺身が一品ついたことは申し添えなくてはなりません。

 Kくんの自我はその時、確実に高い垣根を越えたように思うのです。