感情はエネルギー

平成17年08月19日(金)

 わが家には、ララという名前のパピヨンがいました。抜け毛が私の喘息に悪いというので、今は郡上八幡の実家で私の母親が世話をしています。ララも年老いて、引き取られて行く頃には、置き忘れられたマフラーのように部屋の隅にうずくまって、終日眠ってばかりの犬でしたが、怪しい人影が庭を横切ったりすると様子が一変しました。後ずさりしながらも、細い四肢を踏ん張って力一杯吠えるのです。わずかなドッグフードで命をつなぐララの、一体どこにあれだけのエネルギーがあるのかと考えてみると、人影を見た時の、「怪しいやつ!」という感情なのですね。

 高速道路を運転していた時のことです。疲れていましたから睡魔と闘いながらハンドルを握っていましたが、先行車のスピードが中途半端に遅いのです。早く帰ってのんびりしたいのに…と思ったとたんに急にイライラしました。ええい!と追い越し車線に出た私の車の後ろで、白い乗用車がスッと走行車線を離れました。私が速度を上げると後ろの車も同じように速度を上げてピタッとくっついて来ます。どけどけ!と言っているのでしょう。仕方なく走行車線に戻った私を猛スピードで追い抜いた白い乗用車は、私の車の前に入ってスピードを落としました。何考えているんだ!とブレーキを踏む私の目に「左によれ」という赤いネオンの文字が飛び込んだ時には、睡魔はすっかり消えて、心臓が踊っていました。

「随分出てましたよ、スピード」

 覆面パトカーの警察官に反則切符を切られながら、つくづく考えました。疲れていたはずの私がどうして張り切って追い越しなんかかけてしまったのでしょう。すると、これもやはり中途半端な速度の先行車に対する「くそ!」という感情なのです。

 感情はエネルギーを持っているのです。

 腹が立つとゴミ箱を蹴りますし、火事場では老婆が重い箪笥を持ち上げます。昨今の児童虐待も、性犯罪も、全ては黒々とした感情が噴き出した結果です。

 高校三年生の冬のことです。一緒に受験勉強をしようと誘った友人と二人、結局、教科書を開くこともなく一晩を過ごして炬燵でうとうとする頃、雪が降りました。深夜にトイレに起きた私は、ちょっとしたいたずらを思い付き、雪をひとつまみ持って部屋に戻ると、眠っている友人の首筋に落としました。

「うわ!」

 と目を覚ました友人は恐い夢を見たと言って、こんな報告をしたのです。

 蓄えが貯まって新しいスキー板を購入し、ゲレンデの頂上で張り切ってスキーを履こうとすると、片方の板が滑り落ちました。慌てた友人は、もう片方の板を抱えてゲレンデを追いかけました。新雪のゲレンデは思うように歩けません。スキー板は大変なスピードで滑り落ちてゆきます。下では無邪気に子供たちが遊んでいます。そこを加速度のついたスキー板が直撃すれば…。

「逃げろお!」「危ないぞお!」

 友人は叫びました。

 それがゲレンデにこだましました。

 背後で、ごおっという不気味な音がしました。

 表層雪崩でした。

 思うように足を運べない友人目がけて雪崩が成長しながら迫って来ます。振り向いた友人を、まるでナイアガラの滝のような巨大な雪の壁が襲いかかったところで目が覚めたと言うのです。

「ああ、恐かった…」

 と言う友人の夢は象徴的でした。

 私が首筋に落とした雪が刺激になって構成された夢には違いありませんが、雪をテーマにした夢は雪崩でなくても構いません。雪ダルマをこしらえても、雪合戦をしても、かまくらの中で楽しくお餅を焼いてもいいはずなのに、どうしてわざわざ雪崩に襲われるような恐い夢を見たのでしょう。

 思い出して見てください。感情はエネルギーなのです。

 友人の心の中にある感情が、首筋の雪の感触をきっかけに夢となって噴出したのだとすれば、表現されている「感情」こそが夢の正体です。スキーを履きそこねた悔しさ、大声で叫んでしまった後悔、迫り来る雪崩の恐怖、思うように逃げられない焦り…。それは、一緒に勉強をしようと誘われてその気になってしまった悔しさ、教科書も開かないで遊んでしまった後悔、迫り来る受験の恐怖、思うように勉強の進まない焦りと一致しています。恐らく友人はそういった感情を押し殺して、さっきまでミカンを食べて笑っていたのです。

 友人が受験に対する不安を押し殺したように、感情には安易には外に出せないものがあります。出せば周囲に差し障ったり、意識すれば自分が苦しかったりと理由は様々でしょうが、心にわだかまった感情はマグマのようにエネルギーを持て余して出口を探します。理性という名の、感情を見張る番人の眠った隙に映像になって意識に上れば夢でしょうし、夢だけでは足りず、あるいは夢にすらなれず、身体の不調となって噴出すれば、原因不明の症状を訴えて病院を渡り歩くことになるでしょう。わだかまった感情が巨大なエネルギーを閉じ込めたまま、出口を見つけられないで心の闇にうずくまれば、ひきこもりです。大切な人を失った悲しみの最中には、どんなに気の利いた冗談でも笑えないように、わだかまった感情が巨大であればあるほど、小さな感情は力を持たないで、本人にはエネルギーが供給されません。閉じ込められた感情は意識されませんから、エネルギーを断たれた本人は訳もなく無気力無感動な毎日に苦しんで、周囲から元気を出せと励まされたり、怠け者と蔑まれたりするのです。

 ことほどさように感情とは厄介な存在ですが、考えてみれば私たちの命そのものが一組の男女の感情の昂ぶりを契機に誕生しています。誕生した赤ん坊は笑ったといっては喜ばれ、泣いたといってはあやされて、成長を果たした今も上司に認められたといっては有頂天になり、恋人の心変わりを嘆いては酒を飲んでいるところを見ると、生きるということは感情の生起そのものであると言っても過言ではありません。しかも、今年一年どうか平穏無事でありますように…などと神前に手を合わせて初詣を済ませたその人が、家では好んでサスペンス番組を観て波乱万丈のドラマを楽しんでいるのですから、私たちはどうやら様々な感情を味わいたくてたまらない欲求を抱えた動物のようです。味わった感情の持つ大小のエネルギーに突き動かされるように、私たちは泣き、笑い、怒り、悲しみ、濁流に飛び込んで子供を助け、罪もない人を殺め、歌を唄い、絵を描き、俳句を読み、小説を書き、政治家になったり、宗教家になったり、ひきこもったりして命を燃やしているのです。

 問題は、感情を表現すること、あるいは表現できないでいることが不適応に結びつく場合です。できれば犯罪者にはなりたくありませんし、ひきこもりにもなりたくはありません。

 防ぐ工夫が二つあるように思います。

 一つはできるだけ肯定的な感情が生起するような人生観を持つことです。生理的なものを除けば、感情は、遭遇した事実が自分の持つ価値体系の中で特定の意味を持った時に生起します。例えば、損か得かという価値体系を持つ人が食事に出かけたりすると、隣の客の天ぷらの方がわずかに大きいという事実だけで不愉快になりますが、レジが間違えておつりを五十円多く渡してくれたりすると幸福な気持ちになります。和をもって貴しとなすという生き方を自分に課している人は、友人の気分を損ねたと思うだけで眠れぬ夜を過ごしますし、遅くなった自分を家族が夕食を食べないで待っていてくれたりすると、生きていて良かったと思います。つまり、他人との比較や関係性の中に自分の幸福の程度を量る尺度を持つ限り、関係の変化によって振り子のように幸福と不幸の間をめまぐるしく行ったり来たりすることになるのです。もとより社会は人と人との関係の網の目で構成されていますから、人間関係によって一喜一憂するのは避けられません。しかし、どんなに海面が荒れていても海の底はしんと静まり返っているように、一喜一憂する感情とは別に、他との関係性ごときでは決して揺らぐことのない価値体系さえ持てば、否定的な感情に翻弄される可能性は低くなるはずです。

 長年小説を書いて来て気が付いたことがあります。

 例えば健気なお嫁さんを描きたいと思えば、どうしても意地悪な姑が要るのです。健気なお嫁さんと良くできた姑が仲良く暮らしました…では健気さが描けません。どんなに姑に意地悪されても、拗ねたり僻んだりしないで家族のために尽くす素直な嫁の姿を描いてこそ読む人に健気さが伝わるのです。反対に耐える姑を描きたいと思えば、今度は気の強い嫁さんが必要です。家族の平和のため、息子を困らせないため、わがままな嫁と仲良く暮らす姑の努力を描けば、耐える姑の哀しさが読者の胸を打つのです。同様に、勇気を描こうとすれば困難が、正義を描こうとすれば悪が、愛を描こうとすれば自己犠牲を要求される場面がどうしても必要です。タイタニックという映画などは、この辺りの状況を鮮やかに設定して、心憎いばかりに感動的なエピソードを演出しています。もしも船が沈まなかったら…と考えて見てください。あれは、様子のいいお兄ちゃんが一目ぼれした女性をカネ持ちの婚約者から奪ってしまったというアホみたいな映画です。船が沈むという「困難」があるから、死を覚悟して音楽を奏でるミュージシャンたちの「勇気」が表現され、カネを支払ってでもわれ先に逃げようとする「悪」がいるから、女、子どもを先に逃がすのだという船員の「正義」が際立つのです。最後はひと組の恋人たちの前に一人しか乗れない大きさの板切れが一枚与えられます。愛を問う古くからの命題です。女性を乗せた板切れにつかまって冷たい北の海に首まで浸かった若者が、やがて力尽きて海底に姿を消すところで観客は涙を流します。「自己犠牲」を厭わぬ男の「愛」に感動するのです…が、ふと、愛し合っていれば三十分交代だろうよ…と考えたとたんに突然夢から覚めました。

「さあ、三十分経ったわよ。交代しましょう」

「そろそろ三十分だぞ。交代しよう」

 こうすれば、助かる助からないは別にして、愛は二人を引き裂くことなく完結するはずですが、残念ながらそれでは観る者は感動しないのです。

 人生観の話をしています。

 人生を芝居と考えれば、今日一日が私という役者に与えられた一幕の舞台です。「困難」に遭遇した時は勇気を表現する舞台設定が整ったのです。そこで勇気を表現するか臆病を表現するかは私に任されています。「悪」と遭遇した時には正義を表現する舞台設定が整ったのです。そこで正義を表現するか悪に屈するかは私に任されています。主人公になることも脇役になることも、場合によっては悪代官の役を引き受けることも私の選択に委ねられているのです。

 四十二歳の春、私の直腸に癌が発見されました。家族はまだ誰も知りません。全身麻酔で尾骨を外し腫瘍をくりぬくという大手術を受けることが決まった夜、一人しみじみと考えました。運命という脚本家の手によって、私に「困難」という舞台が設定されたのです。私は、くよくよと心を病む弱い人間を演じることもできれば、自ら家族に告知して粛々と手術に臨む強い人間を演じることもできるのです。どうせ逃げることのできない舞台なら、私は迷わず後者を選択しました。堂々と家族に説明し、敢然と手術を受け、無事こうして戻って来てみると、困難に立ち向かったあの頃の張りつめた日々が輝きを放っています。

 こんなこともありました。

 七百人規模の講演をお引き受けして職場を変わり、新しい手帳にスケジュールを書き写す段階で手違いが生じました。

「今どの辺りですか?」

 という主催者からの電話に、

「講演は明日ですよね?」

 と聞き返すと、既に名古屋の公会堂に七百人が集まっているというのです。目の前が真っ暗になりました。私は岐阜の田舎にいて、どんなに急いでも間に合う距離ではありません。ところが絶望の最中に奇跡のような異変が起きました。降り始めた雪が激しさを増し、見る見る辺りを銀世界に変えて、電車は止まり高速道路も閉鎖されたのです。雪を理由にして講演会は中止になりました。私は考えました。雪で救われたとはいうものの、七百人規模の講演会をすっぽかした責任は免れません。またしても私に「困難」という舞台が設定されたのです。その日のうちに公会堂に電話して空いている日を押さえました。「お詫び講演会の開催について」という文書を作って主催者にファックスしました。そして、主催者の損害を賠償した上で同じ趣旨の講演会を個人で開催するので、案内先の名簿を送付してほしいとお願いしました。すると反って恐縮した主催者から、思いがけず翌年の講師の依頼を受けたのでした。

 話を元に戻しましょう。

 感情はエネルギーを持っていて、私たちはそれに突き動かされるようにして様々な行動をとっています。ここでは、できるだけ肯定的な感情を生起させるための人生観の話をしています。癌も講演日の失念も、困難という舞台が設定されたのだと受け止めて「勇気」や「責任感」を表現する側に回ることで私は否定的な感情に翻弄されないで済みました。「随所に主となる」という禅の言葉がありますが、状況を所与の舞台と見極めて、主人公としての選択を不断に継続する生き方に徹すれば、他との比較に陥ることはありません。そしてそれは常に成功者ではなく「創造者」でいられるという意味で、肯定的な感情の源泉になると自負しているのです。

 それでは、感情を表現すること、あるいは表現できないでいることが不適応に結びつかないようにするための、もう一つの方法に移りましょう。

 感情がマグマのように出口を求めていることは既に書きましたが、その最も社会的表現方法が言語であることは論を待ちません。ゴミ箱を蹴らなくても犯罪を犯さなくても、鬱屈した感情を言葉で表現できればエネルギーは穏やかに放出されます。言葉は論理で出来上がっていますから、感情という熱いガス体はそれを言葉にする作業の中で冷却され整理されて、可燃性の低い液体に変わります。感情を言葉で表現するためには、まずは聴いてくれる人が必要です。私たちは壁に向かってはしゃべれません。次は場所です。静かで落ち着いた雰囲気なら最高です。そして時間です。複雑で深刻な感情の吐露であればあるほど、誰にも邪魔されない十分な時間が保障されるべきでしょう。最後は聴く技術です。感情がしっかりと受け止められる聴き方をされなければ、話す気力もなくなってしまいます。ところが現代社会は、この四つの条件を整えるのが大変難しい状況になっているように思うのです。

 私が子供の頃、家には通称「くど」と呼ばれる竈(かまど)があって、学校から帰ると祖母が切り株に腰を下ろして火吹き竹でプ~ッとご飯を炊いていました。ランドセルを放り投げて祖母の横のもう一つの切り株に座り、

「お婆ちゃん、何かない?」

 と言うのが、子供たちの口癖でした。

 祖母はよっこらしょと立ち上がると、大きな真鍮の鍋に塩茹でしてある大量のじゃが芋を、長い菜箸でプツッ、プツッ、プツッと串刺しにして、ぬうっと差し出してくれました。それをハフハフとかじりながら、私は学校であった一日の出来事を全部しゃべりました。嬉しいことも悲しいことも、恥ずかしいことも悔しいことも…。祖母は火吹き竹の手を休めて、ゆっくりと聞いてくれました。つまり、そこには聴いてくれる人と場所と時間がたっぷりとあったのです。ところが、わが家に電気釜がやって来ると、場所も時間もなくなりました。電気釜という文明の利器が奪ったのです。

 当時は「カナダライ」と呼ばれるブリキ製の盥(たらい)がありました。祖母は洗濯板という波型の板に汚れ物をこすり付けてごしごしと洗濯をしていました。確か、白い大きなミヨシという固形石鹸を用いていたように思います。「かまど」を失った私は「カナダライ」の傍らにしゃがみ込んで一日の出来事をしゃべりましたが、洗濯機がやって来るとこれも姿を消しました。洗濯機という文明の利器はまたしても祖母と孫がゆっくりと話し合う場所と時間を奪ったのです。

 座敷箒という、藁(わら)でできたホウキがあって、

「哲雄、座敷を掃くでなあ、お茶の葉っぱを撒いてくれ」

 私はよく祖母に命じられました。濡れたお茶っ葉を畳に撒いて、埃と一緒にからめ取る生活の知恵でした。

 私はお茶っ葉を撒きながら一日のできごとしゃべり、祖母はそうかそうかと掃きながら聴いてくれましたが、わが家にやって来た電気掃除機は、激しい騒音で会話を許しませんでした。

 つまり文明という名の時間節約装置は、人間を家事労働の拘束から解き放つ一方で、人と人とが関わる機会を慢性的に奪ったのです。現代社会が感情を言葉で処理するための条件を整えにくいのは、暮らしを便利にしたいと願うあまり、人を一定の場所に一定時間縛り付けておくことのもう一つの意義を見落としたからです。今では、まとまった話しをしようとすれば、わざわざ場所と時間を設定しなければなりません。しかし、心の中で生まれては出口を探す小さな感情たちは、場所と時間が設定されるまで待ってなどいられません。すぐさま竈(かまど)の前に座るお婆ちゃんのところへ駆け寄って話しをしたいのです。そういう意味で私たち現代人は、心を健康に保つためには誠に困難な時代に身を置いていると言わなくてはなりません。

 そこで聴くための技術が大切になってくるのです。

 感情の持つエネルギーを、最も穏やかに表出する方法が言語なのですから、暮らしの中で交わされる会話のほとんどは、日常的に生起する小さな感情の表現に過ぎません。あなたが交わした一日の会話を書きとめてみてください。大した内容の会話ではないことが解ります。

「今日も暑いなあ…蝉が焦げ落ちるぞ」「あいつ、あんなに会社のために頑張って仕事して、リストラはひどいよなあ」「おい、さっき電車でとんでもない格好の女子高生見たぞ。女ってのは肌を見せたいのか?隠したいのか?」

 どれもこれもたわいもない内容です。これに応えて、背後にある感情をしっかりと受け止める返事が返って来れば、会話は癒しに満ちたものになるでしょうが、逆だと不愉快な感情が新たに生起して、出口を求めるエネルギーの内圧はさらに高まることでしょう。

 そこで両者を例示してみれば、

「今日も暑いなあ…蝉が焦げ落ちるぞ」

 に対して、

「ほんと。熱中症に気をつけなきゃな」

 という返事が返れば感情は消失しますが、

「本当の暑さなんて、こんなものじゃないぞ」

 と言われればムカッとします。

「あいつ、あんなに会社のために頑張って仕事して、リストラはひどいよなあ」

 に対して、

「不景気になると、組織は非情になるからなあ」

 という返事が返って来れば、まったくだ…とうなずいて次の話題が展開しますが、

「所詮あいつの頑張りは会社には認められていなかったということだな」

 では同情心の収まりがつきません。

「おい、さっき電車でとんでもない格好の女子高生見たぞ。女ってのは肌を見せたいのか?隠したいのか?」

 に対して、

「でしょう?私も町で水着みたいな服装の子見たけど、何考えてるのかしらね」

 と返されれば、困ったもんだ…で終わりますが、

「まさか、じろじろ見たんじゃないでしょうね?逮捕されるわよ」

 では喧嘩になってしまいます。

 会話の目的は、感情の処理、情報伝達、意見交換のいずれかですが、相手が感情の処理を求めていると判断したら妨げてはいけません。うなずいたり、繰り返したり、言い変えたり、言い当てたりしながら、感情を受け止める技術…これが聴く技術です。ところが、批判的態度を進歩的と教え込まれた昨今の人々は、ここでも的外れな対応をする傾向が否定できません。それどころか、お互いがお互いの対応に期待できないまま臆病になって、感情を交えない単なる情報交換に終始する会話が増えているようにさえ思います。

 何度も繰り返しますが、感情はエネルギーです。小さな感情が生まれては出口を求めているのが私たちの心の日常の姿です。昔なら井戸端や縁側で存分に放出されていた数々の感情が、今はそれぞれの心の中でくすぶっています。一つ一つのエネルギーは小さくても、慢性的に蓄積された内圧の総和は、高圧ガスの状態で外に出る機会を窺っています。そこに発火点を超えるストレスが加われば…。その程度のことで、なぜこんなことを…と誰もが首を傾げるような事件が連日マスコミを賑わしていますが、原因の些細さに比べて結果の重大な事件が増えている背景の一つには、現代人の心の中で内圧を加える感情エネルギーの蓄積があるような気がしてなりません。今こそ自覚して、互いの感情を気持よく流し合うための、人と、場所と、時間と、技術を取り戻さなくてはならないように思います。ましてや巨大な感情が心の闇にわだかまっているような場合には、「聴く」という領域における専門家の手を借りてわだかまった感情を探り出し、様々な方法で放出する必要が生じる訳ですが、その技術を紹介することは私の能力を超えています。ここでは現代社会がいつの間にか軽んじてしまっている感情処理の重要性と方法について、日頃の所感をまとめるにとどめたいと思います。そしてまとめ終わってみると、まとめおおせたことで私の心の内圧は確実に安全なレベルにまで下がったという実感があることを付け加えます。