感情はエネルギー2

平成17年09月09日(金)

 コンビニのレジでの出来事です。

 車椅子に乗ったお爺さんと、お爺さんを介護するお婆さんが、私のすぐ前で支払いをしていました。品物を袋に入れてもらってお婆さんが財布を取り出した時、お爺さんがカウンター近くの棚から棒状の巻き寿司を手に取ってお婆さんに差し出ました。

「あれあれ、お寿司はうちにあるがね」

 受け取った寿司を、お婆さんがレジではなく棚に返そうとした時です。

「黙って買わんか!馬鹿たれが!言う通りにせよ!」

 お爺さんが突然激しい口調で怒鳴りました。

 レジの女の子は感電したみたいに棒立ちになりました。店にいた数人の客の視線が一点に集まりました。

 お婆さんは、慌てて巻き寿司をレジに差し出しながら、「穏やかな人やったに、この頃よう怒りんさる。怒っても怖うないでな。怒鳴っても怖うないでな」

 にらみつけるお爺さんの顔を見ないで何度も何度もつぶやきながら巻き寿司の料金を支払いました。

 すぐ後ろに立っていた私は、図らずもお爺さんと目が合いました。くちびるを震わせて全身で怒りを表現するお爺さんの鋭い視線に私は一瞬たじろぎましたが、先に目を逸らしたのはお爺さんの方でした。目を逸らす瞬間に、お爺さんの瞳に哀しい色がよぎりました。

(本当は巻き寿司なんかどうでもええんや…)

 お爺さんの目はそう言っていました。

 感情はエネルギーです。

 私にはその時、お爺さんの心に黒々とわだかまる巨大な感情が見えたような気がしました。歩く…つまり、好きなところへ移動するという、人間にとって基本的な自由を車椅子に委ねて、日常の一々を老妻に頼らなくてはならなくなったお爺さんの胸には、運命として諦めたつもりの不自由感が、諦めれば諦めるほど圧縮されて内圧を高めているのでしょう。介護してくれる妻に遠慮をし、感謝をすればするほど圧縮の度は増して、不自由感は抗し難い圧力で出口を求めるのでしょう。

 手にした巻き寿司を元の棚に戻されたという事実が、自由を阻まれるという共通の水脈で心の中のわだかまりと繋がりました。

「あれあれ、お寿司はうちにあるがね」

 というお婆さんの理屈を越えて、小さな火口から不自由感が噴出しました。

「黙って買わんか!馬鹿たれが!言う通りにせよ!」

 お爺さんの大声は、

「何でこんな身体になってしまったのや!わしは自分で歩きたいんや!」

 という感情の変形なのです。

 ささいなことに必要以上の反応を示す時、その行動にエネルギーを供給する圧縮された感情が存在しています。

 支払いを済ませてレジを離れる二人と入れ替わる時、今度は車椅子を押すお婆さんと目が合いました。

「やかましくして悪かったですね、済みませんでしたね」

 お婆さんは必要以上に丁寧に謝罪してすれ違いましたが、私はその時、お婆さんの瞳の中にも介護に束縛される不全感が黒い炎を燃やしているのを発見したのでした。