大衆演劇

平成17年09月29日(木)

 三連休を持て余した三日目に、名古屋の中心にある芝居小屋というものに、生まれて初めて出かけてみました。

 町の自動車修理工場程度の大きさの平屋の建物には、入り口にずらりと花輪が立ち並び、スピーカーから流れる大音量の演歌が通行人の足を止めています。

 いらっしゃいませ!いらっしゃいませ!という威勢のいい声を浴びながら千八百円の木戸銭を支払って中に入ると、会場は見渡す限りの中年女性客でむせ返り、おにぎりの海苔の香りに混じって、かすかに貼り薬のハッカの匂いがします。ようやく会場の隅に補助席を見つけて腰を下ろした私の隣には、化粧の濃い六十代の女性が座っていましたが、サイズが合わないのでしょう、スカートの後ろのファスナーが途中まで下がり、鯵の開きのような形で下着が覗いていました。圧倒的な女性客たちの中で、私を含めた数少ない男性客は一様に肩をすぼめて小さくなっていました。壁には、時代劇のやくざ者に扮した役者たちのポスターが一面に貼られて客席を眺め下ろしています。ステージを隠す幕は、天井に巻き上げる重厚な緞帳とは違って、左右に開く薄手のカーテンで、プリントされた劇場の名前が空調の風でかすかに波打っていました。

「ぁ大変長らくぅ…お待たせをぉ…致しました。ぁただいまよりぃ…お送り致しますぅ…演目は…」

 という独特な抑揚のアナウンスを合図に人力で幕が開き、芝居が始まりました。

 人間の視線にはエネルギーがあるのでしょう。五百人ほどの観客の視線が一点に集まると、集まった先に立つ役者の身体は光を帯びて見えました。

 舞台は大きな商家の店先で、集金に出かけたまま帰りの遅い一人息子の源太郎を、目の不自由な女あるじが心配しているところから始まります。やがて帰宅した息子の無事を喜んで、さあさあ一緒に夕食をと二人が奥へ消えたところへどやどやと五人のやくざ者が登場し、

「野郎、こんなところへ潜り込んでいましたぜ」

「手足切り取って達磨にならなきゃあ仲間からは抜けられない掟を思い知らせてやらあ。野郎をここへ呼べ」

 呼び出された息子が地面に額をこすりつけて、勘弁してくれ、堅気にしてくれ、親孝行をさせてくれと泣いて頼むのを足蹴にして、

「あん時の押し込みで、てめえ一人が捕まったかと思やあ、こんなところに隠れて居やがった。さあ、掟どおり手足叩っ斬ってやるから覚悟しろい!」

 頬にざっくりと切り傷のある着流しの男がギラリと刀を抜いた時、

「待ってやっておくんなせえ、親分」

 と止めに入ったのが、座長扮する主人公です。

 すかさず、

「いよ!日本一」

 と言う客席からの掛け声に、

「あいよ!」

 座長がにっこり笑って見せると、会場はどっと笑いに包まれます。

「こんな野郎の手足取ったって何の役にも立ちゃしねえ。幼い頃に行方不明になったこの家の息子になりすまし、うなるような金蔵の跡取り息子に化けたんだ。どうでい、ひとつカネでかたぁつけようじゃねえか、兄弟。ん?」

 と主人公が源太郎の目の前に人指し指を一本立てると、

「一両ですか?」

 手足と引き換えにしては間の抜けた金額に、

「ふざけるねえ!千両よ」

 ドスのきいた声で怒鳴りつけられたのは会場でした。

 笑うタイミングを制されて静まり返った観客が注目する中で、払う、払えないの押し問答が続いたあげく、

「いいだろう。おめえが無理なら、おカミさんに訳を言って千両出してもらうまでよ。息子さんは元盗人の一味でござんすよと素性をばらすが、それでもてめえ、構わねえんだな!」

「それだけは…」

「なら千両だ」

「う…」

「千両出すんだな?」「出すんだな?」

 と念を押し、期限は、そうだな…と腕組みをして、

「こういう時、大衆演劇は暮れ六つと決まってるんだ」

 この辺りが大真面目な芝居とは違うところです。

「暮れ六つまでならあとわずか。そうと決まれば俺たちは向こうの居酒屋で一杯飲りながら待っているから、おめえは野郎がずらかりゃしねえか、しっかりと見張ってろい!」

 店先に残されてごろりと横になった主人公の耳に聞こえて来る母と子の話し声…。

「ねえ源太郎。お役人さんのお力で、お前がこうして戻って来てくれて、母さんは本当に嬉しいが、小さい頃に別れ別れになる時にお前の首に下げていたお守り袋は持っているだろうねえ」

「お守り袋でございますか?」

「帯の端切れでこしらえた小さな袋の中には源太郎と、お前の名前を書いた札が入っていたはずだよ」

「ああ、持っていますとも、大切に」

「私は目が不自由だから、あれをこの手に乗せておくれでないか」

「はい、そういたしましょう。大切にしまってありますから今から私が取ってまいります」

 息子が舞台に姿を現すより先に、突然むっくりと身体を起こした主人公は、懐から赤いお守り袋を取り出してわなわなと震えながらこう言います。

「げ、源太郎はこの俺だ。あいつは源太郎なんかじゃねえ。お守り袋は捨てられた時からずっとこうしておいらの首から下がってた。するってえと…あのお人が、あのお人がおいらのおっかさん…」

 母親の店から一千両もの大金を奪おうとしていた自分のあさはかさを思い知った主人公は、奥から出てきた息子に、ここはおいらに任せておきなと見栄を切ります。

 見計らったように暮れ六つの鐘が鳴ります。

 千両は揃ったかと荒々しく親分一味が登場します。

「親分。この家のカミさんは、おいらの実のおっかさんでござんした。あっしに免じて今回だけは、どうか見逃してやっておくんなせえ」

 頭を下げる主人公は、

「ならねえ、ならねえ!何を血迷ったことぬかしてやんでえ!てめえが実の息子なら、この家の身代乗っ取って、蔵ん中のカネは一両残らず俺たちのもんだあな」

 聞く耳持たない親分と大立ち回りの末、一味を切り殺して足に深手を負ってしまいます。

「何だか店が騒がしいねえ、どうしたんだい、一体…」

 おぼつかない足取りで店に姿を見せた母親に、

「あ、いえ、お母さん、店先で私がならず者に因縁をつけられて危ういところを、偶然訪ねて下さった昔のお友達に助けていただいたのですよ」

「まあまあ、それはそれは…」

 何かお礼をという申し出を断って、

「その代わりと言っちゃあ何ですが、ひとつだけお伺いしたいことがごぜえやす」

 おかみさんは、どうして源太郎さんをお捨てなすったんですかいと尋ねる主人公は、長年の心の奥のわだかまりに決着をつけたいのです。

「自分のおなかを痛めた子を捨てたりはしませんよ」

 江戸を火の海にした振袖火事から、子供の手を引いて命からがら逃れる途中で火の粉のために失明し、母と子はちりぢりになったのだといういきさつを聞いた主人公の、ここから先が演技の見せどころです。

「それじゃあ…それじゃあおっかさん、いえ、おカミさんは、源太郎さんをお捨てになったんじゃあねえんでござんすね?」

「捨てたりなんかするもんですか!」

「あっしは、いや、源太郎さんは…源太郎さんは捨てられたんじゃあなかったんですね?」

 今度は役者の体から発するエネルギーが客席を襲ったようです。

 観客たちが泣いています。

 ハンカチを目に当てて、五十代、六十代の女性たちが、少女のように泣いているのです。

 獄門、磔を覚悟の上でこれから番所に名乗り出て、おいら堅気になるんだと、傷ついた足をひきずりながら行きつ戻りつ花道から消えてゆく主人公に送られる拍手には満場の声援がこもっていました。

 興奮冷めやらぬ芝居小屋にしばしの休憩があって、二度目の幕が開くと、第二部は歌謡ショーでした。

 観客は、まるで催眠状態でした。

 お目当ての役者が現れては陳腐な日本舞踊を披露する度に、熱烈なファンがステージの前にそっと近寄ります。ファンの姿を目ざとく認めた役者は踊りを中断すると、いそいそとファンの前に進み出て膝を折ります。得意げに胸を張る役者の襟といわず帯といわず、ファンたちはむき出しの一万円札を扇型にして惜しげもなくクリップで挟み付けます。千八百円の入場料を支払って客席でおにぎりをかじった観客が、個人的には何の関係の発展も期待できない役者たちに、何枚もの一万円札を捧げてうっとりと満足なのです。

 話しには聞いていましたが、実際にその真っ只中に身を置くと、人間というものの不思議さを思い知ります。狭い舞台の上で、架空の物語を厚化粧の役者が演じると、普段はバーゲンに血まなこになっているに違いない観客たちを、泣かせ、笑わせ、大金を投じさせる世界が展開するのです。

 芝居がはねてぞろぞろと小屋を出た外には、明るい日差しの中に夢から覚めたような現実の生活が広がっていました。スーパーの袋をかごに入れた自転車が通り過ぎました。隣のパチンコ屋から出てきた男が、吐き捨てるようにくわえていた煙草を飛ばしました。客を見送りに出た役者たちの顔は、汗で流れた化粧の隙間から、働く男の表情が覗いていました。ご贔屓の役者を囲んで女性たちが記念写真を撮っていましたが、囲まれながらも周囲に満遍なく気を配る役者の視線とは裏腹に、女性たちの瞳はまだ夢を見ているようでした。