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笑い声
平成17年10月02日(日)
小説を書いていると、登場人物が笑うところを表現しなければならない場面がありますが、笑い声は「はひふへほ」と、あと一つ、「く」でできていて、それぞれ使い方が決まっているように思います。
「おい、芳雄は今日も公園か?」
「あの子、一人だけ逆上がりができないのがよっぽど悔しいのよ。毎日練習に行くわ」
「いい加減にやめさせたらどうだ。逆上がりなんかできなくったって生きて行ける。お前、大人になって逆上がりしたことあるか?」
「ばかね、悔しさが問題なのよ。あなただって田中さんが先に係長になった時、しばらくは悔しがって、お酒が増えたじゃない。大人になると、悔しいことが変わって行くだけよ」
「田中の話しはするな」
と言っているところへ、
「できた、できた、逆上がり、できたよ!」
飛び込んで来た芳雄を抱き上げて、
「そうか!やったな!芳雄、偉いぞ!」
と笑う時は、どうしても、「ははは!」でなくてはなりません。
妻が同窓会に出かけて行った留守に壁をゴキブリが這って、勤続二十年表彰の額の裏に隠れました。慌てて殺虫剤をかけたのですがゴキブリは出てきません。スプレーを取りに行ったわずかな隙に逃げたのでしょうか。恐る恐る額縁を持ち上げると、ゴキブリの代わりにバサッと封筒が落ちて埃が舞いました。中には旧い一万円札が八枚入っています。妻は、こんなところにへそくりを隠したまま忘れているのです。
「ばかめ、元はと言えば俺のカネだ」
封筒を、書棚の奥の古語辞典の間に隠しながら夫が漏らす笑い声は、「ひひひ…」でなくてはなりません。
ところが翌日、
「母さん、ひねもすってどういう意味?」
高校生の一人娘に聞かれて、
「確かお父さんの書棚に古語辞典があったわよ」
取り出した分厚い辞書の間に同じ封筒を発見し、
「こんなところにへそくりしたりして…。ばかね、忘れているんだわ」
しめしめと財布に入れる時の妻の笑い声は、「ふふふ…」でなくてはならないのです。
札幌に来てひと月が経ちます。
「おれ、三年も離れて暮らせないよ」
「だったら転勤を断ってよ。私にだって仕事があるわ」
結局、私より会社を選ぶんじゃない…と涙ぐんだ洋子とは、あれ以来連絡を取っていません。
どうして女は比べようもないものを比べて男を責めるのでしょう。会社で順調に成績を上げるのが、二人の幸せの基礎なのだということが、洋子には解らないのでしょうか。
夜のコンビニで、おでんとおにぎりを買いました。最近、妙に暖かいものばかり食べたくなります。
アパートの鉄の階段を上がろうとしてドキッとしました。
まばたきする蛍光灯の明かりの下にうずくまっていた人影が顔を上げました。
「洋子!」
「私、出て来ちゃった」
いたずらっぽくに肩をすぼめる洋子の笑いは、「へへへ…」でなくてはなりません。
玉の輿だなんてうかれてちゃだめだよ、釣り合いを無視した結婚は一緒になってからが大変なんだから…という叔母の忠告を、和代はひがみだと思っていました。親の反対を押し切って、板金塗装の職人とできちゃった婚をした姪の勇気を羨ましいと思う一方で、三年越しで交際していた恋人と別れて、友人の紹介で知り合った中堅会社の御曹司との結婚を決めた自分の生き方は賢明だったと思っていました。一時の情熱に従って、あとはそれが無惨に冷えてゆく日々を過ごすより、一時の情熱は押さえ込んでも、経済的、社会的に安定した環境に身を置く方がしあわせに違いありません。
「結婚生活は恋の延長じゃなくて、冷静な現実処理よ」
と、したり顔の和代は、やがて叔母の忠告を思い知るようになります。
会社の付き合いで同席する高級な料亭、お茶席、絵画の展覧会…。知識と人脈が透けて見えるように工夫された会話に和代はついて行けないのです。そして、招待されて取引先の社長夫人たち数人とオペラを観た後の喫茶店で、
「和代さんはプッチーニなどはお好きかしら?」
と一人に尋ねられて、
「私、ショコラドムースが好きです」
と答えた時、
「あら、やっぱり若い人はオペラよりケーキですわね」
あきれたように顔を見合わせながら笑う着飾った女性たちの笑い声は、「ほほほ…」でなくてはならないのです。
最後は「くくく…」ですが、これは押し殺しても漏れてしまう陽気な笑いです。
食卓に準備されたすき焼きを見て、
「何だ、ごちそうじゃないか」
いぶかる裕介に取り合わず、
「着替えたら子供たちに声をかけてね。みんな待ってたんだから」
久子は卓上コンロに火をつけました。
「真由美、和樹、ご飯だぞ」
「はあい!」
二人は裕介に続いて階段を下りて来ますが、食卓には付かず、後ろ手に何か隠してにやにやと立っています。
「二人ともどうしたんだ、すき焼きだぞ、早く席につけ」
お前たち、後ろに何を隠してるんだと聞かれた二人は、「くくく…」と笑い、
「せ~の」
と目くばせをして、
「お父さん、誕生日おめでとう!」
クラッカーを鳴らして大声を張り上げました。
手がけていたプロジェクトが競争会社に先を越され、失意の底にいる父親を励まそうという子供たちの意図に思い当たると、裕介は慌てて鍋を覗き込み、
「よし、肉だ肉だ、たくさん食って元気出せよ」
湯気でメガネを曇らせるのでした。
日本語って面白いですね。
終