直面回避症候群

平成17年10月24日(月)

 天網恢恢ではありませんが、世の中が高度に情報化すると、人間社会にも天網同様の情報ネットが張り巡らされて、昔なら闇に潜伏したまま決して明るみに出ることのなかった悪事が漏れるようになったのでしょう。背広姿の責任者が、大勢の新聞記者たちの焚くフラツシュの中で、深々と陳謝する姿を目にする機会が増えました。

 頭を下げる時の台詞は決まっています。

「誠に申し訳ありませんでした」

 しかし、どうしてこれが過去形なのでしょう。

 悪事を暴かれて謝っているのですから、申し訳ありません…でいいはずなのに、押しなべて過去形なのです。申し訳ありませんでした…と、申し訳ありません…は、一体どこが違うのだろうと気になっていましたが、こんなふうに考えて納得が行きました。

「申し訳ありません」

 と現在形で謝罪すると、

「申し訳ないで済むと思ってんのか、責任とれ、ばかやろう!」

 と事態は渦中の生々しさで継続しますが、

「申し訳ありませんでした」

 と過去形にすれば、事件は既に一定の決着を見て、あとは裁きを待つばかりです。

「そうか、反省してるんだな…まあ、誰にでも間違いはある。しっかりやれよ」

 と許してもらえそうな期待が謝罪する側の無意識に存在するのではないでしょうか。

 そう思って考えてみると、過去形にすることによって事態に直面するバツの悪さを微妙に回避しようとする表現に思い当たります。

 空いている席に客を案内したウェイターは、

「こちら禁煙席となっておりますが、よろしかったでしょうか?」

 などと言いますし、料理を全て出し終わると、

「以上でご注文の品は全てでございますが、間違いなかったでしょうか?」

 と過去形です。

 過去形にすることによって当事者の間には、過ぎ去った出来事をはさんで冷静に向かい合う関係が、紙一重程度の危うさで成立するのです。

 事態に直面する緊張を回避する方法は他にもあります。

「こちらランチになります」

 と言えば、ランチです…と断定するのに比べると、微妙に当事者ではありません。

(ねえねえ、注文のランチ持って来たけどさあ、メニューの写真と比べて若干見劣りがするかも知んないけど、これがこの店のランチなんだからよ。いいかい?おれはランチが出来上がったと言われて運んで来ただけで、責任持ってる立場じゃないよ。そこんとこよろしく)

 という気分を感じます。

「七百八十円になります」

 と言えば、七百八十円です…と言うのに比べると、やはり微妙に他人事です。

(いや、レジを打ったらさあ、七百八十円となったわけよ。嘘じゃないよ、お客さんも見てただろ?あんたの買った商品のバーコードをよ、おれはピッピッてこのガラスの窓にかざしただけだから。正確かどうか…。でも正確だと思うよ、機械だからさ。間違ってたりしたら後で遠慮なく言ってよ。とりあえず、七百八十円になったから、ね?払ってよ)

 という気分を感じます。

 過去形でもなく、「なります」でもなく、もっと格調高く事態への直面を回避しようとすれば、漢字の熟語を使うという高度なテクニックがあります。

「心底から遺憾の意を表する次第であります」

 というのは、言い換えれば、

「ほんと、気の毒だったねえ。おれ、心からそう思うよ」

 という意味ですが、これでは、

「気の毒?関係ねえような言い方するんじゃねえよ。おめえだって大臣なんだから、こんな結果になったことについちゃあ、責任があんだろうよ」

 と反発されそうですが、誠に遺憾に存じます…とふんぞり返られると、何だか言われた側が恐縮してしまうのです。

「当時の事実関係については記憶にありません」

 というのも、言い換えれば、

「ごめん、一生懸命思い出そうとするんだけどよ、何にも覚えてねんだよ、その時のこと」

 という意味ですが、これでは、

「ばかやろう、一億円ものカネ受け取っておいて、忘れるやつがどこにいる?知らぬ存ぜぬで通るほど世間さまは甘かねんだ。本当のことを言え!」

 と詰め寄られそうですが、漢字の熟語を並べれば、記憶にないのかあ…うん、ないものはしょうがねえよなあ…とこうなるか、追求する側の言葉も同じように漢字熟語の羅列になって、

「記憶にないなどという不誠実な回答では承伏致しかねます。是非とも誠意あるご答弁を願います」

 となって、どうですか?所期の目的通り、感情むき出しの事態からは、はるかに遠ざかったでしょう?

「魔が差したっつうの?犯罪を取り締まる側が、こんな悪いことしてしまってよ、ほんと、二度とこんなことさせねえから、勘弁してくれよ、この通りだ」

「警察内部から逮捕者を出すなどという失態につきましては、再発防止に向けて粉骨砕身の努力をもって謝罪に代える所存であります」

「だって、こんなに雨降るなんて思わないもの、だろ?けど、あいつが悪い、こいつが悪いって言ってみたって、水に浸かっちまったもなあ仕方がねえ。な?な?できるだけ早く何とかする。何とかするからよ、我慢するんだぞ」

「当初の予想を凌駕する雨量が原因とは言え、甚大なる被害を招来した結果につきましては、可及的速やかに対策を講じることと決しました」

 そして、漢字熟語を縦横に駆使する高度な技術に守られて、終始ふんぞり返ったまま恥じることのない職業の人々によって、国家という我々の暮らしの基礎が運営されているような気がしてならないのです。