同時進行

平成17年10月31日(月)

 満員電車で携帯電話の着信音がけたたましい音量で鳴り響くことがあります。きっと携帯はバッグかポケットの中で鳴っているのですが、すし詰め状態の車内では持ち主も身動きができないのでしょう、電話はなかなか鳴り止みません。そんな時、周囲の乗客の顔に、嘲笑とも軽蔑とも同情ともつかぬ複雑な表情がよぎると、それまでの無機質な通勤列車がにわかに生き物の気配を見せて、自分が間違いなく人間集団の中にいるという確信を得るのです。

 場違いな音が、雰囲気をガラリと変えることがあります。

 世に知られた美しい女優が、幻想的な演奏をバックに、凛とした和服姿で源氏物語を朗読する催しがありました。会場は屋外です。銀色の月が秋の夜空に浮かんでいます。庭園を埋め尽くした聴衆は、ライトを浴びた純和風の建物の濡れ縁を見つめて息をひそめていました。やがて琴の調べを合図に、すべるように姿を見せた女優が朗読を始めると、聴衆の脳裏にはたちまち平安のみやびの世界が展開しました。物語は佳境に入り、思いを寄せる女性の部屋に忍び込んだ源氏が、闇に焚きしめられた香のかおりを深々と吸い込んだ時です。

「わらび~餅、わらび~餅、冷た~くて、おいし~いよ」

 源氏の恋もどこへやら、聴衆は魔法が解けるように現実に引き戻されました。

(でも、石焼芋よりはマシだわよね…)

 と小声で慰め合ったのが逆効果でした。

「おじさん、五百円にまけてよ」

「奥さん、そりゃ無茶だ。小さいの一本おまけするから、勘弁してよ」

 一旦そんなやり取りがよみがえってしまった聴衆の頭には、平安の貴族の恋がひどく無価値なもののように思えるのでした。

 私が病院の相談室に勤務していた頃の出来事です。

 無理をしてようやく小さなラーメンのお店を持った若夫婦に子供ができ、妻は女の子を出産したとたんに脳の血管が切れて寝たきりになりました。

「このままでは、どうにも生活が成り立たないのです」

 膝の上でこぶしを握る夫の無念をよそに、廊下で立ち話をする女性の、無遠慮な声が聞こえて来ました。

「ほんで?今度はどっちやったん?」

「男の子やった」

「良かったがね、一姫二太郎。あんたらの心がけがええからやで」

 心がけ…。

 目の前でこぶしを握る若者の不幸は、心がけが悪かったからでは絶対にありません。

「済みませんね、通常の会話なら聞こえることはないのですが、ああ大声だと…」

「嬉しい時は、悲しい人のことなんか考えられません。僕もそうでした」

 その時の若者の言葉は今も私の心に刺さっています。

 あれから私の身の上にも色々なことがありました。そしてこの頃では、この世が何もかも同時進行であることを、救いのように感じているのです。