記憶のシート

平成17年11月13日(日)

 和歌山で仕事をした帰りに思い立って、三十三年ぶりに大阪の母校を訪ねて見ました。

 背の高いビルが林立する梅田界隈の様子は隔世の感がありますが、阪急電車は昔のままのくすんだワイン色で、乗ったとたんに懐かしい過去に私を運んでくれました。

 記憶というものは一本のロープのようにつながっているものではなくて、シートを積み上げたように心の倉庫に保管してあるものなのでしょう。電車が淀川を渡って各駅に停車する度に、記憶のシートは一気に意識の海に浮上して、同級生に出会った時のような懐かしさで駅名にまつわる想い出が蘇ります。大学前の駅に下り立った私の年齢は、再び二十歳前後の若者でした。生まれて初めての一人暮らしは、この駅から始まったのでした。心細さと期待とがサラダオイルのように分離して、何にもできないような気がしたり、何でもできるような気がしたり…。思えば三十三年が経過した今も、両者は分離したまま続いているような気がします。

 正門に続く道の両側にひしめきあっていた学生相手の店は、ゲームセンターやコンビニへと姿を変えていましたが、オヤシラズを抜いた歯科医院は当時のまま残っていました。巨大な歯根が埋伏していたために、それを三つに切断して抜歯したのですが、玄関に立ち止まって診察時間の表示を眺めると、またしても記憶のシートが浮上して、

「私、こんな頑固なオヤシラズは初めてですよ」

 と言いながら額に脂汗を滲ませていた青年医師の真剣な目に見つめられたような気がしました。当時三十代だったとすれば、あの医師も今は六十代でしょう。二十歳だった患者は、残ったオヤシラズも全部抜いて、既に五十五歳になっているのです。

 時が流れました。

 流れた時の痕跡を探すのは骨が折れました。ブランド物のバッグや腕時計が、行き交う学生の生活レベルを表していました。学生向けのアパートを斡旋する不動産屋の店先を、小洒落たワンルームマンションの写真が飾っていました。安酒をあおって天下国家を論じた居酒屋は綺麗なレストランに変わり、抜歯した後しばらく通い詰めたうどん屋は、もう場所さえも分かりませんでした。

 田舎の三十年は駘蕩として不変ですが、都会の三十年は街の景色を塗り変えてしまうのに十分なのです。

 ですから、昔のままの佇まいで営業中の札を下げるトンカツとオムライスの店を発見した時は胸が躍りました。店内は改装してはあるものの、当時の配置を守るテーブルに席を取ると、カウンターの中から水を差し出した割烹着の店主が昔のままでした。

「三十三年ぶりに母校を訪ねましたが、残ってるお店はここだけですね」

「三十三年でっか?懐かしいでっしゃろ?それやったら、残ってんのは、まあ、うっとこと隣の写真屋の二軒だけでんなあ」

「ご主人は、いくつになられたのですか?」

「もう六十九の年寄りだ」

 変哲もないオムライスまでが昔の味でした。

「この店も私でしまいだ。息子は東京へ行ったきり戻らしまへん。そら自分の土地やさかい、食うだけは食えまっせ。借地やったらとうにお手上げだ」

「もっと値段上げてもええんちゃいますか?今時オムライス四百円は安過ぎますよ」

 わざわざ大阪訛りで私が言うと、大学の学生食堂が種類も多くて安いので、それよりも高くしたらピタッと客足が途絶えるのだと答えて、おやじさんは笑いました。

 お釣りはいいからと五百円硬貨をテーブルに置いて店を出ると、

「あかん、あかん、そんなんあきません」

 慌てて追いかけて来て渡してくれたお釣りが五百円でした。

 年を取ったのです。

 大学は、メイングラウンドを移動して新しい建物が建っていました。そのグラウンドの中央にパジャマ姿で寝転んで、二十歳の私と友人は満点の星を眺めていました。

 手を伸ばせば届きそうなところに星はまたたいていましたが、当時の大学は、激しい学生運動の末、機動隊に封鎖されて手の届かないところにありました。

「本当に行くのか?」

「学費を払ってる自分の学校だぞ。俺たちが立ち入れないなんて変だろう」

「捕まらないか?」

「過激派学生はパジャマで忍び込んだりしないよ」

 二人は深夜に下宿を抜け出して鉄条網をかいくぐり、久しぶりのグラウンドで仰向けになったのでした。

 誰もいない夜の学内は森のように静まり返り、振り仰ぐ夜空は、革マルだ民生だ日帝だという昼間の喧騒など関係のない穏やかさで晴れ渡っていました。

 イデオロギーに染まるにはわずかに懐疑的で、平和のために鉄パイプを握るにはわずかに常識人だった私と友人は、それでも自分たちなりに狭い下宿で政治を論じ現状を嘆いたあげく、いわば精一杯の政治行動として、立ち入り禁止の学内に忍び込んだのですが、眼前に広がる悠久の星空を眺めていると、二人とも流行り病が癒えるように、健全であることの意味があっさりと腑に落ちるような気がしていました。

 と、その時です。

 グラウンドの闇の四方八方に鋭い光が点りました。

 光は焦点を絞るように足早に近づいて、私たちを取り囲みました。忍者のような黒ずくめの機動隊員たちに両腕を取られて、二人は別々の場所に連行されました。住所は?氏名は?校内に侵入した目的は?同じことを聞かれ、同じ答えをして疑いが晴れた二人は、再びグラウンドに戻ると機動隊に議論を挑みました。何を議論したのかは全く記憶にありません。ただ、車座になってヘルメットを脱いだ機動隊員たちの素顔は、学生たちの前に立ちはだかる国家権力などではなく、私たちと同年齢の一途な青年たちであったことと、彼らは彼らの立場で真剣に国家の将来を憂いていたということを鮮やかな印象で覚えているのです。

 あの時、鉄条網をかいくぐった同じ場所を反対に抜けて、大学の裏の道をたどってゆくと、木造の安普請が密集していた下宿街は今風のワンルームマンション街にすっかり変貌していました。何の手がかりもない見知らぬ景色の中を、方向だけを頼りにさまよった私は、

「あ!」

 と小さく声を上げました。

 四年間過ごした木造二階建ての下宿が、そこだけ映画のセットのように残っていました。

 玄関の表札が昔のまま打ちつけてありました。

 青いプラスチックの波板で囲われた洗濯場が同じ場所に張り出していました。

 洗濯物を干す時にきまって隣の下宿から流れていた「また会う日まで」という歌謡曲が、旧式の洗濯機の回転音を伴って耳元で蘇りました。

 木製の下駄箱も昔のままでした。

 壁にベニヤを二段に打ちつけて、学生の名前の紙を貼り付けた郵便受けも当時のままでした。

 携帯電話どころか黒電話の通話料も節約の対象だった時代に、この郵便受けに届く故郷からの手紙をどんなに待ち侘びたことでしょう。ほとんど文通だけで二年間交際した恋人からの封筒の白さに、どんなに胸をときめかしたことでしょう。

 洗面器を並べて入浴の順番を確保した共同風呂。パチンコの景品の安っぽいウイスキーを痛飲して何度も吐いた共同トイレ。スリッパの向きで入室の可否を示す暗黙のルールが成立していた狭い狭い居室…。そういえば廊下に設置された自動販売機は、コンビニのアイスクリームの冷蔵庫のような形式で、中にはコーラがずらりと金具で固定されていて、おカネを入れると取り出す瞬間だけ金具が外れる仕組みのものでしたが、学生たちはコーラなど買わないで、冷蔵庫の隙間に濡れタオルを詰め込んで冷やし、それを体に当てて涼を取っていました。

 古いシーツをカーテンの代わりにして西日の窓を遮っても畳の変色を防げなかった四畳半の部屋で、私は一度も転居することなく四年間を過ごしました。

 めまぐるしく上下する記憶のシートに頭の中を占拠されて、私は長い間下宿の玄関先に立ち尽くしていました。

 背を向けたとたんに下宿は取り壊されてしまうような不安がありました。取り壊されれば手がかりを失った記憶のシートは、再び過去という開かずの間に封印されて、新しい手がかりが与えられるまではじっと眠り続けるのでしょう。次回訪ねる機会を得た時も、この懐かしい景色に出会えますように…。

 私は祈るような思いでわずか半日間の時間旅行を終えたのでした。