プライドの代償

平成17年12月13日(火)

 小学六年生の女児が二十三歳の塾のアルバイト講師に殺害されました。報道によれば、気持悪いからあっちへ行けと言われたり、自分が担当する授業を拒否されたことを恨んでの犯行のようです。

 生徒との確執を知って、事件の直前に講師に対して女児との関係の修復を求めた塾長は、ニュースキャスターにマイクを向けられて、

「私の注意の仕方が悪くてこういう結果になったのだとしたら、申し訳ないことです」

 と頭を下げました。

 被害者と同じ学校に通う児童の母親は、

「あってはならないことが起きたという感じです。犯人が憎くてなりません」

 犯行現場に花を手向けて涙ぐみました。

 新聞には、『わが子の塾は大丈夫?』という見出しが躍りました。

 しかし…と思うのです。

 同じことを二度と引き起こさないために…いえ、もっと率直に言えば、わが子をこの種の犯行の被害者にしないために、私たちが事件から学ばなければならないことは何でしょうか。塾の教員の採用に当たって、念入りな性格検査を行うことでしょうか。過去の経歴を丹念に調べ上げることでしょうか。教員を複数制にして、児童と教員を決して二人きりにしない工夫をすることでしょうか。それとも随所に監視要員を配置することでしょうか。いずれも大切な視点です…が、いずれも限界のあることです。それよりも私は、他人のプライドを傷つける代償の大きさについて子供たちにきちんと教えることこそ必要なのではないかと思うのです。

 感情はエネルギーというコラムを書きましたが、プライドを傷つけられた人間の内部には巨大なエネルギーが発生して出口を探します。無視したり、馬鹿にしたり、あからさまに避けたりすれば、怒りのエネルギーは確実に行為者に向かいます。たとえ自分にとって真実であっても、気持悪いからあっちへ行けと言ってはいけません。人間には、言ってはいけないことがあるのです。

 被害者に鞭打つつもりはありませんし、わずかでも犯行を正当化するつもりもありません。ひょっとすると加害者の供述はすべて妄想に基づくものかも知れません。それでもなお事件から離れて、私たちの側で努力の可能な教訓だけを蒸留してみたいのです。これから先、犯人の人となりが次々と明らかになることでしょう。例によって関係者や昔の友人や近隣の住人にまで取材が行われ、わずかな逸脱傾向までが暴かれるに違いありません。評論家や心理学者が様々な分析を繰り返すことでしょう。しかし、どんなに犯人の異常性が明白になったとしても事後の調査です。事前に入手できる情報ではありません。それどころか、世の中はむしろ個人の情報を保護しようという方向に進んでいるのです。とすれば、色々な人がいることを前提に身を処してゆかねばなりません。変な人間は常に身近にいるのです。臆病になり過ぎるのも問題ですが、プライドを傷つけるような言動は慎むべきでしょう。どんなにバラエティ番組で多用されていても、うざい、きもい、ださいなどという侮蔑的な言葉を不用意に日常生活で使うことには、思いがけないリスクが伴っていると考えるべきなのです。

 子供たちは、あいさつ運動と称して誰にでも挨拶をしましょうという指導を受ける一方で、見知らぬ人から声をかけられた場合を想定して悲鳴を上げる訓練をするという悲しい時代を生きています。社会を批判するのも犯人を憎むのも警戒態勢を強化するのも大切ですが、病的な自我が増えている今、人間という不可解な「変数」を無用に刺激することの危険性について、この辺りで真剣に学ばなければならないのではないかと思うのです。