五十五歳の雪

平成17年12月19日(月)

 誕生日に時ならぬ大雪が降りました。

 名古屋の市内も一面の雪景色になって、五十五歳最初の通勤はロングコートにブーツ、手袋にマフラーといういでたちになりました。誰かが除雪したのか、それとも踏まれ踏まれた結果なのか、人ひとり通れるだけの幅の一本道になった白い歩道を、職場へ急ぐ男女が行き交いますが、ふと興味深い事実に気がつきました。すれ違う時に道を譲る人と譲らない人、譲られて頭を下げる人と下げない人にくっきりと分かれるのです。

 恐い世界に住む人は見るからに恐ろしい格好をし、気の弱い公務員は地味な背広で身を包むように、人間は常に自己表現をしてやまない存在ですが、そう思って観察すると、意識するしないにかかわらず、雪道をすれ違うという場面ひとつでも、

「私は相手を優先させる人間ですよ」

「おれは自分を優先させる人間だぜ」

 とばかり、自分の人柄を示す表現舞台になっているのです。

 私は…と言うと、前方に相手を認めるや、随分と早いうちから圧雪の道を一歩逸れて、新雪にズボンの裾を汚しながら道を譲っていました。

 やさしい人間なんだ…と一旦は自負をしましたが、すぐさま、嘘をつくなという声が聞こえました。

(気が弱いだけじゃないのか?)

 声はそう言って私の仮面を剥ぎ取ろうとするのです。

 確かに、やさしさと気の弱さは、結果において類似しています…と、また一人、前方から人が来ました。

 私は自分の心の中を凝視しました。

 ピンクの傘を差したOLが近づくにつれて、次第に緊張が募るのが解ります。

「どちらかが譲らなければすれ違えない。どうする?お前が譲る理由があるのか?五十五歳だぞ?相手はどう見ても二十代だ。これがシルバーシートなら、お前は譲られる立場だろう。それに相手も同じようにブーツを履いている。お前が道を譲ればズボンの裾が濡れるが、相手はスカートだ。衣類が汚れる心配はない。どうだ、それでもお前が譲る必要があるのか?」

「ちょっと待て。このまま近づいて相手が道を譲らなければ、お前はどうするつもりだ?向かい合ったまま相手の顔を直視して譲らせる自信があるのか?そうなってから、済みませんなどと言われて道を譲るのはみっともないぞ。それくらいなら、初めから譲った方が人間として上等に見える。そうじゃないか?」

 葛藤は瞬間でした。

 OLの視線が私に注がれたとたんにいつもと同じ結論が出ました。

 私は新雪の中に足を踏み入れて立ち止まりました。

 その傍らを、OLが傲然と通り過ぎました。

 頭を下げないOLに、不思議と腹が立ちませんでした。

 それよりも、この気の弱さが私の生活にもたらしている光と陰が、白い景色の中でいつになくくっきりと見えたような気がしていたのです。