人間の空洞化

平成17年12月26日(月)

 息子が卒業する前に、父親として大学とアパートを一度は見ておこうと思い立ち、暮れの三連休を利用して東京に出かけて来ました。

 久しぶりに見る大都会は名古屋とは規模が違い、天をつくような超高層ビルが林立する中空を複数の自動車専用道路が交差しながら走り抜けて、全体が美しい造形美を形成していました。自然の樹木が日の光を求めて枝を伸ばすうちに見事な枝ぶりの大木に成長するように、都市も、利便を求めて隙間へ、地下へ、上空へと拡大するうちに、優れた機能美を獲得するものなのでしょう。優雅な曲線と色彩にいろどられたコンクリートの町は、点在する公園や神社の緑をアクセントにして、かつて砂漠と揶揄された都市に対する批判からははるかに遠ざかっていました。

 それにしても東京はおびただしい人の数です。乗り物にも通りにも駅にも地下にも、人、人、人、人…人が溢れ返っていました。この群れの一人一人に親があり故郷があり住む部屋があって、生きてゆくための糧を得る仕事があるのだと思うと不思議な感覚に襲われます。むしろ、生きてゆくための糧を得られる仕事があるからこそ、人が集まって都市を形成したと考えるべきなのでしょう。

 そもそも文明は自給自足からの脱却の歴史です。

 収穫し、調理し、家を建て、服を作り、子を産み、死を看取る生きものとしての一連の営みを、一つずつ他人に委ねることで豊かになりました。今や私たちは、誰かが建てた家に住み、誰かが収穫した食べ物を誰かに調理してもらって食べ、誰かが作った服を着て、産院で出産し、病院で死んでゆきます。一方自分自身は、見知らぬ誰かのために終日自動車を作り、電車を運転し、お惣菜を販売し、ビルの掃除をしているのです。つまるところ文明社会における仕事とは、他人の需要を満たすことであるわけですから、たくさんの人間が集まる都市に仕事が集中するのは当然です。仕事を求めて人が集まり、人が集まれば仕事が増え…、都市はブラックホールのような吸引力で質量を増してゆく宿命を負っているのです。

 しかし人間の生活の質量はどうでしょう。

 明けても暮れてもコンピュータの端末を操作してビルの設計に従事する人は、設計技術の熟練を果たす一方で、魚をおろす技術を持ちません。直火でご飯を炊く技術を持ちません。集団で保育する技術に長けた保育士は、家でわが子をどう愛したらよいか解らないのです。

 空洞化という言葉があります。

 都会で働く人々が地価の高い都市部に家を建てられず、住む場所と働く場所との関連が途絶えしまった状態を、都市の側から量的に表現した言葉でしたが、これだけ広範囲に生活を他人の手に委ねて、物に対しても人に対しても情報に対しても直接的な関係を喪失すると、人間の精神も空洞化するのではないでしょうか。

 洒落た部屋に住み、まあまあの車に乗り、ブランドの財布を持ち、そこそこのローンを抱えて、パソコンで調べた美味しいといわれる店で外食を繰り返す豊かな暮らしが進めば進むほど、生活の周辺から、漁師が魚を獲った時のような本物の手応えがどんどん失われてゆきます。いちいち意識していたらきりがないほどの人数の他人に取り巻かれているのですから、関わりのない人間は風景だと思わなければ生きてゆけません。風景ならその中で化粧をしようとキスをしようと恥ずかしくもないのですが、反対に、他人から風景だと思われる屈辱に対しても感覚を麻痺させなくてはなりません。人を機能としてとらえること。必要な時以外は風景と見なすこと。自分も容易に風景になりきれること。それは実は思った以上に深刻な精神の空洞化ではないかと思うのです。

 ハトバスに乗りました。

 結婚式に出席したついでに東京見物をしているという十人ばかりの集団が前の方の席に陣取っていましたが、全員が素朴な東北訛りでした。慣れた口調で車窓の景色を説明するベテランガイド嬢は、固有名詞を持つ一人の女性としてではなく、観光案内という一つの「機能」としてマイクを握っていました。乗客の大半も彼女を機能として認め、指し示される方向を眺めてはうなずいたり感心したりしていましたが、東北訛りの集団だけは違っていました。

「バスは路上では長時間お待ちすることができません。お下りになりました場所に、くれぐれも遅れないようにお集まりくださいますようお願い申し上げます」

 というガイド嬢の指示に、

「はい。ええか、みんな遅れねようにするんだぞ」

 いい年をした大人が、素直にうなずきながら一々返事をしています。それが東北の訛りなのです。

 滑稽でしたが感動的でした。

「浅草は大変な人出でしたが、仲見世のおみやげ物、お求めになれましたでしょうか?」

「あっちこっち見て、ちょっとビール飲んだりしていたら、時間こ足りねぐなってしまってな、あはは」

 笑う鼻の頭はほんのりとピンクでした。

「皆様、都庁からの展望はいかがでしたか?」

「おれたちゃ田舎者やでせえ、あったら背の高い建物が立ってるつだけで足っこすくんでしまう」

 あげくは終点に着いたバスの正面にガイド嬢を立たせ、

「記念に、写真こ撮るべ」

 ほれ、並べ並べと指図して、

「済みませんが、ここんとこ、カシャッて、シャッター押してもらえませんか」

 バスを下りてきた乗客の一人に、使い捨てカメラを押し付けると、

「はい、ち~ず」

 小走りで被写体の隅に加わってにっこりと笑いました。

 飾らない人間だけが持つ、いい顔をしていました。

 きっと北国の地酒を汲み交わしながら、出来上がった写真を眺めて土産話をすることでしょう。

 地縁と血縁でつながった人間関係の煩わしさを運命のように引き受けて不便な生活に根を生やす生き方は、黒光りすることはあっても空洞化することはありません。

 そして、恐らくはその素晴らしさに気付くこともなく、

「都会はええてば、雪もねくて暖かくてな…」

「んだ、仕事はあるし便利だしよ」

 などと、夢のような東京を羨ましがるに違いないのです。