分刻みの管理

平成17年02月07日(月)

 職場にタイムカードが導入されてもうすぐ一年が経過します。一人の管理者が複数の教員の勤務を管理するのには限界があるために、それぞれの教員による自己管理を徹底するという目的に異存はないのですが、問題は分刻みのペナルティです。一時間を越える遅刻早退は半日休み、一時間以内の遅刻早退は二回で半日休みとしてカウントされるのです。ちなみに教員という職務の性格上、よほど特別な場合を除いて超過勤務手当ては支給されません。

 ある日、定刻に間に合うように出勤した私は、学校の玄関で学生に話しかけられましたが、一分でも遅刻すれば、集計表に「遅刻」と記載される上に、二回で半日休みです。

「悪い、職員室でタイムカードを押さなきゃいけないんだけど、いっしょに来るか?それともここで待ってるか?」

 と尋ねる私に学生はペコリと頭を下げて立ち去りましたが、今でも私は、タイムカードよりも学生との立ち話を優先させるべきだったという教員としての良心に目をつむっています。

 こんなこともありました。

 授業中に急に始まった胃痛に耐えながら、最後まで講義を終えて職員室に戻りました。学生は全員が下校しました。夜間の学校ですから時刻は九時を回っています。我が家に帰り着くには一時間半が必要です。少しでも早く帰ろうとしてふと見ると、タイムカードのデジタル時計が九時十五分を示していました。勤務時間は九時二十分までです。ここで帰れば五分の早退になって、二回重なれば半日休んだことになってしまいます。タイムカードの前であぶら汗を流して五分という時間の長さを痛感しながら、これが五十歳を超えた大人のやることだろうかと思いました。

 午後からの勤務の日の午前中は勤務時間ではありませんから、たとえばどこかで一つ講演を済ませてから出勤ということがある訳ですが、主催者との昼食会が準備されていたりすると、ご一緒しないと礼を失する場合があります。かといって参加していると午後の勤務に間に合いません。一時間をわずかでも越えて遅刻が見込まれる場合の感情の処理が大変です。出勤しても半日は休んだことになるのです。勤務扱いされない勤務のために、職場に向かう気持ちは複雑です。どうせ休みなら本当に休んでやろうと考えるほど計算ずくで仕事をしているつもりはありませんが、職場のルールは計算ずくで管理する意志をあらわにしているのです。

 雪が降りました。いつもより一時間も早く家を出たのですが、道路事情が極端に悪く、駅にたどりついたのが列車の時間の二分前でした。切符を買ってあえぐようにプラットホームに駆け上がった耳に、列車が十五分ほど遅れているというアナウンスが鳴り響いた時の落胆は表現のしようがありません。たかが遅刻です。二回で半日休みになるだけで、減給がある訳ではありません。気にしなければいいと頭では判っているのに、感情が全く違う反応をするのです。遅刻を悔いる反応ではありません。限りなく憤りに近い感情です。どこかで味わったことがあるぞ…と記憶をたどると、警察のネズミ捕りでした。人間の当たり前の暮らしに存在する「ごめんなさい」「大変だったね」で本来済ますべき出来事が カネ尺で測ったように裁かれてしまう状況に腹が立つのです。

 タイムカードの導入には善意も悪意もありません。単なる勤務管理の手段です。ペナルティも年休を消化すれば実害はありません。なのに、べっとりと皮膚にまとわりつくような不快感を一年間感じ続けたのはなぜでしょう。教員のような精神労働には、生産部門以上に、職場に対する帰属意識とかアイデンティティとか愛着とか誇りといった「核」になる感情が必要です。それがあるのとないのとでは、教える内容は同じでも、学生に伝わる質が違います。たかがタイムカードごときで士気を低下させてなるものかと自分を鼓舞するのですが、鼓舞しなければならない程度には蝕まれているのです。こんな文章を書き綴っていることそのものが、既に健全ではありません。それが、私ひとりではなく、管理される集団の屋台骨をシロアリのように侵食しているのが判ります。多少遅くなってもみんな食卓で待っていてくれた暖かい家が、少しでも遅刻すれば食事を捨ててしまう厳しい家に変質したのです。家ではなくて職場だぞと言われそうですが、それでもなお、そこで暮らす集団が共有し始めた不全感は、分刻みの管理のひとつの影響として認識しなければならないように思います。