寛容な社会

平成17年02月10日(木)

 十代後半から二十代前半の若者たちが様々なテーマで本音の議論を戦わせるトーク番組があります。中に一人、先輩格のような著名人が加わって、折りに触れてはコメントを差しはさみながら、現代の若者の姿を明らかにしようという試みのようです。私のように五十歳を過ぎたおじさんが楽しみにして見るという番組ではありませんが、たまたまテレビをつけて放映中だったりすると、他人の会話を立ち聞きするような興味にかられてついつい見てしまい、たいていはやりきれない気持ちにさせられてしまいます。

 その日は「授業中、なぜ静かにできないのか」というテーマで議論が展開していました。学校は勉強を教わる場所なのだから、授業は静かに受けるべきだと主張する女子高生に対して、いや、学校は勉強だけが目的ではなく、恋をしたり友人を作ったり、一度しかない青春を楽しむ場所でもあるのだから、興味のない授業を静かに耐えて貴重な時間を無駄にすることはないと、金髪にピアスの若者たちが反発します。ここで議論の詳細を紹介するほどの記憶力はありませんが、次のようなやりとりが印象に残っています。

「でも、授業中に携帯電話したり、黙って教室を出て行ったりするのは絶対おかしくないですか?」

「全然普通…つうか、たとえば友達が失恋とかして、泣きながら携帯かけて来たとするじゃん。ね?それってやっぱ心配じゃない?すぐに行ってあげるのが友達じゃないかって思うわけ。泣いてる友達より、つまんない授業を優先する方が人間として絶対おかしいと思うけど…」

「失恋はプライベートなことでしょう?そんなこと休み時間にすればいいと思います」

「まじで?それ、めっちゃ冷たくない?」

 そして、孤軍奮闘する真面目な女子高生に対し、

「そういう生き方していると、いつかきっと後悔する時が来ると思うんだけどね…」

 と前置きして、作家だか漫画家だかの著名人がコメントした内容を、正確さにこだわらずに再現するとこんな感じです。

「人ってさ、様々な価値観で生きていると思うんだよね。決して一つじゃない。色々な生き方があっていいし、人生はむしろ、回り道して成長することの方が多いと思うよ。ぼくなんか、興味のない授業ん時は別のことしてたなあ。だって、苦痛だよね、面白くないのに我慢してるの。君の場合、もっと柔軟な生き方をして、今しかできない経験をたくさんしたらいいんじゃないかなあ」

 また別の日には「目上の人には敬語を使うべきか」というテーマが取り上げられていましたが、円滑な人間関係を築くことは自分にとっても有益だから、先生や先輩には敬語を使うべきだと主張する二人の若者に対して、

「それってさあ、むなしくない?」

 自由な若者たちが猛反発していました。

「敬語とか使う時点でさあ、自分の側が本音じゃないわけだから、そんなふうにして築いた人間関係って、結局嘘じゃん」

「でもね、私たちより一年でも長く生きてる人って、確実にそれだけたくさん経験していて、私たちはそこから教わることがあるわけだから、敬意を表するのは当然だと思うし、それに、先輩としても、その方が気分がいいんじゃないかなあ」

「そういうの、形式的で、何かこうへつらっててさあ、やっぱ本当のつきあいじゃないと思う」

「敬語使ってて何も損はないと思うんです。むしろそれで周囲とうまく行けば、色々な情報が手に入ったり、引き立ててもらえたりする可能性があるわけで、得をするって言うと嫌な言い方だけど、わざわざため口で反感を買ってそういうチャンスをふいにすることはないと思うんです」

「いっつもそんなふうに計算するみたいな生き方してたら疲れない?それで楽しいわけ?それに何かさあ、敬語とか丁寧語だと、思ってることちゃんと伝えられないっつうか、本当の自分じゃない感じするんだよね。それがすげえ嫌だ」

 延々と続くこの種のやりとりに苛立ちながら、ちょっと待てよ…と思いました。そもそもこんなこと、陽の当たる場所で議論すべきことなのでしょうか。

 私たちが子供の頃だって、授業中静かにできないことはたくさんありました。先生にうっかりため口を利いて注意されたこともありました。しかし、授業は静かに受けるものだという常識は、議論の対象ではありませんでした。目上の人と話す時には敬語を用いるべきだという常識も、疑問を抱く余地がありませんでした。同様に、盗むことは悪いことで、嘘をつくのもよくなくて、弱い者いじめは恥ずべきことで、親は大切にしなければならないものでした。

「あんなつまんない授業、聞いてろって言う方が無理だよな」

 というのは、当事者同士が鬱憤晴らしに口にはしましたが、それはあくまでも愚痴であって意見ではありません。どこまで行っても悪いのは静かにできない自分たちの側でした。

 この辺りの様子が変わったのです。

 かつては社会の側に岩のように厳然とした価値観があって、逸脱した個々の事情は、当事者の周辺だけで汲まれたり、犯罪心理学のような特別な分野の研究対象とはなり得ても、社会の価値観を問い直すような力は持ちませんでした。ところが昨今は、「自由」と「人権」と「弱者の立場」を重んずる余り、社会の側が逸脱者に対して驚くほど寛容になりました。犯罪者が本を著して評論家になったり、空き巣狙いがテレビに出て防犯を指導したり、成人式を台無しにした新成人がテレビカメラに向かってⅤサインをするのは当たり前になりました。そしてとうとう十代の派手な格好の若者が、

「面白くねえ授業はさあ、する方に責任があるんだから、サボっても別にいいじゃん」

 などとうそぶく発言に、公共の電波が時間を割く世の中になったのです。

 「逸脱」が市民権を得ました。もちろん番組の意図は、逸脱の奨励ではなくて逸脱の事情を明らかにすることなのでしょうが、逸脱への傾斜を持つ一群にとっては別の意味を持つに違いありません。

「学校へ行かないという方法で成長する道を選択する自由だってあっていいと思います」

「働かない権利も保障する社会であってほしいです」

「壁の落書きは、社会の管理システムの中で窒息しそうになっている若者の自己表現なんです」

 かつては一笑に付されていたこの種の発言が、陽の当たる場所に取り上げられ、価値の多様化現象などという空疎な解説を与えられれば、逸脱への傾斜は後ろめたさを免れて、弾みを得るように思います。もっと注目されたかったなどという理由で犯行を重ねようとした女児誘拐殺人犯の屈折した心理を、社会全体で汲む必要はありません。殺人はいけないことだと一刀両断にして、社会は超然としていればいいのです。その上で個人的事情について汲まなければならない点があれば、それは当事者に関係する人々の検討に委ねるべきなのです。

 「逸脱」に無理解でいいと言っているのではありません。くっきりとした社会の枠組みがあってこその「逸脱」だと言っているのです。社会の側が過剰な寛容を示して枠組みの輪郭を崩せば、「逸脱」の側が社会を侵食して来るのは当然です。その結果、何が逸脱かさえ定かではなくなった状態を価値の多様化などととう綺麗な包装紙で包んではいけないように思うのです。