平成17年03月04日(日)

 病院に勤務している頃は当直業務があって、救急車で運ばれる患者の保険証の確認やカルテの準備を行っていました。セスナの墜落事故からムカデに刺された赤ちゃんまで、たくさんの患者と出会いましたが、何と言っても悲惨なのは脳出血、脳梗塞、心臓発作の患者でした。たいていは本人に意識がないまま、良くて入院、悪ければ緊急手術になるのですが、中には救急車の中で既に死亡している患者もあって、医師は家族を納得させる儀式のように、無駄を承知で心マッサージを行っていました。わっと泣き崩れる家族と、横たわる遺体との間には、彼岸此岸の距離がありましたが、その様子を眺める病院スタッフとの間には、さらに深い溝を感じました。

 それに比べると、腹痛や喘息発作の患者などは、大袈裟に運ばれて来る割には、一定の処置が終わると比較的元気に帰って行きますから、受け入れる側も気が楽でした。それどころか、明け方のぐっと眠りが深まったところを起こされたりすると、

「ち!またあの喘息患者かよ。ここんとこ毎日じゃないか」

 まさか昼間の混雑を避けて救急で受診するんじゃないだろうな・・・などとわずかに患者を憎みながら、分厚いカルテを取りに出かけたものでした。

 ところがそんな私が、花粉症が高じて喘息になってみると、発作は決まって夜に起きるのです。特に明け方の四時近くになると、外気が急激に下がるせいでしょうか。まるで目覚まし時計のように正確に咳き込み始めます。気温の変化に過剰反応した気管支は、ありもしない異物を排除しようと大量の粘膜を分泌し、激しい咳にすっかり腫れ上がった気管支の内部は、鉛筆の芯ほども細くなって、もはや息を吸うことも吐くこともできなくなってしまいます。調子の悪いときは、こういう発作が他人の煙草の煙を吸っても起きますし、ちょっと笑った程度の刺激で始まることもあるのです。

 忘年会で生徒たちと飲んでいて、私の言った冗談がウケて、大笑いになりました。私も一緒に大いに笑ったのですが、笑い終わった辺りから発作が始まりました。もう息がありません。なのに咳が出るのです。体の中が熱くなりました。脳がパンパンに腫れ上がる感じがしました。記憶はそこで途切れています。

「先生、起きてください」

「先生、起きてください」

 これくらいの酒で酔いつぶれるなんて珍しいですねと言われてわれに返りましたが、私は生まれて初めて気を失っていたのです。

 あれからちょうど一年が経った昨年の暮れのことです。名古屋市内で依頼されていた夜の講演を終える頃、既に胸の奥に喘鳴がありました。加えて嫌な悪寒がします。予定されていた会食は急遽ご辞退してハンドルを握りました。我が家までは高速道路を走りに走って一時間余り。発作が始まらないうちにたどり着かなければ大変なことになりそうです。

 あと少し・・・。もう少し・・・。

 咳を我慢してアクセルを踏み続けました。

 カミさんに携帯をかけました。

「ただ今電波の届かないところにあるか、電源が入っていません」

 しばらくしてもう一度かけましたが、

「ただ今電波の届かないところにあるか、電源が入っていません」

 我が家に着きました。

 真っ暗です。

 車のドアを開けた私に、師走の冷気が襲いかかりました。

 それが引き金になりました。

 我慢していた咳が一つこぼれ出て、大発作に発展しました。息を吸う間もなく次の咳が出ます。悪寒でむやみに身体が震えます。火の気のないわが家に転がり込んでストーブの前に屈むと、灯油が空でした。ポリ缶のある玄関先まで取って返したところが限界でした。

 このままでは死ぬ・・・と思いました。

 うずくまって震えながら、携帯電話で救急車を呼びました。屈強な三人の男たちの手で担架に乗せられて、赤色燈の回転する白いワゴン車に運び込まれる瞬間に、喘息患者の分厚いカルテを思い出しました。

 患者を憎んだ罰が当たったんだ…。

 ひどく素直にそう思いました。

 酸素をつけ、点滴につながれ、吸入をして、深夜に自宅に帰されましたが、あれを最後になぜか発作は起きません。ただ心の中に「罰」という一文字が住み着いたことは確かです。

 そして私の胸に不遜な思いがよぎりはしないか、じっと監視しているような気がするのです。