間接的性犯罪者の罪

平成18年07月02日(日)

 多治見の駅前広場でとんでもない光景を目にしました。若い女性が下半身をむき出しにして、白昼堂々と排泄行為をしているのです。慌てて顔を背けても、私の目は白いお尻に釘付けになって、

「おい、あんなところでおしっこしてるぞ」

 一緒にいた仲間に言うと、

「ファッションですよ。流行ってるんです」

「ファッション?」

 確かによく見ると、地面すれすれのところに赤いベルトが見えています。ジーンズの股上が浅いために、しゃがむとお尻の割れ目まであらわになるのです。

 そう言えば今年の女性の服装の流行は腰周りの強調のようです。近づいて来る女性はへそ下五センチぐらいまでを露出し、前を行く女性は背中からお尻の割れ目ぎりぎり辺りまでがあらわです。気の毒なのは男たちで、何食わぬ顔をして雑踏を歩いてはいますが、心の中は女たちのフェロモン攻撃にさらされて、色めき立っています。露出部分を凝視すれば、露出した側ではなく、凝視した側が容赦なくセクハラの罪に問われる時代ですから、男たちはあらぬ方向に視線を送りながら、視界にはしっかりと女性たちの刺激的な肉体部位を捕らえて密かに興奮しているのです。

 私は露出度の高い服装の女性に共通している特徴が二つあるように思います。もちろん個人的感想ですから異論のある人には許していただきたいのですが、一つは化粧の濃さでしょう。本来なら人に隠すべき身体の部位をわざわざ見せて歩くのですから、恥ずかしさをかなぐり捨てなければできるものではありません。子どもの頃、忍者の覆面をしたりヒーローのお面をかぶったりすると、思いのほか大胆になれた経験が誰にでもあるはずですが、恥ずかしさを捨てる最も簡単な方法が素顔を隠すことなのです。ひげもサングラスも化粧も、恐らく同じ効果を持っています。本来の自分以外の自分になるのですから、初めて試す時には相当の勇気が要ることでしょう。しかし一旦それに慣れれば、奮った勇気の分だけは確実に恥ずかしさから遠ざかります。化粧は濃ければ濃いほどその人は恥じらいを失って、大胆な露出に耐えられるのです。

 露出度の高い女性の今一つの特徴は、無人の野を行くような不敵な態度です。文句あるか!と突っ張ったような不遜な雰囲気です。これは理由を説明するまでもありません。化粧で隠しているとはいうものの、素顔の彼女たちは、自分のファッションが社会の常識から逸脱していることを知っているのです。化粧という仮面を被った勢いで、文句あっか!と自分を鼓舞していなければ、とても常識という世間の圧力に対抗する術はありません。その心の在り様が、どこか突っ張ったような不敵で不遜な態度に映るのでしょう。

 さて、ようやく主題にたどり着きました。

 そのようにして闊歩する女性たちの露出した腰周りに刺激を受けた男たちの性衝動は慢性的に抑圧されますが、抑圧する力にも衝動の強さにも個人差があって、どうにも抗し難い欲望を持て余した男たちの性衝動のはけ口が、無力な幼児や抵抗のできない気の弱い女性に向けられるとしたらどうでしょう。卑劣な痴漢行為を正当化するつもりは毛頭ありませんが、それを誘発した遠因には、男たちの欲望の前に余りにも安易に肉体を露出してはばからない間接的性犯罪者たちの罪があるとは思いませんか?

 感情はエネルギーです。ましてや性という本能に属する感情は、巨大なエネルギーをもっています。本来が攻撃的な男の性を日常的に刺激し続ければ、エネルギーは外に向かって破廉恥な事件を引き起こし、内に向かえば抑圧が高じて男たちの非男性化をもたらすことでしょう。どちらも深刻な社会問題と言わなくてはなりません。男女共に極度に肌の露出を嫌うイスラムの風習は、性の秩序の温存に過度に傾いた社会防衛の姿なのかも知れません。もっとも露出行為そのものがファッションではなく、男を挑発する女の性衝動に基づくものであるとしたら、挑発する側の自由はお尻の割れ目まで認められ、挑発される側の行動はセクハラとして極度に制限を受ける均衡を失った社会の在り様は、男女の関係という根源的な生命活動に好ましくない影を落とさないはずがありません。抑圧された巨大な男たちの欲望を市場にして、あの手この手の闇の性産業が展開し、無抵抗な対象をはけ口にした性犯罪が多発します。

 今日も満員電車や暗い路地裏で、露出する勇気すら持たない弱い女性たちが痴漢行為の被害に会っているとしたら、加害者の背後で彼の性衝動を日常的に刺激し続ける間接的性犯罪者たちにも相応の罪の自覚が求められるのではないかと思うのです。