露出考

平成18年07月13日(木)

 貧しい国がありました。

 たくさんの人々が空腹に耐えて生活していました。

 ある日、王様の命令で、広場の中央に大きなテーブルが置かれました。王様は大勢の人々にうらやましがられながら食事をする快感を味わいたいと思ったのです。

 テーブルにはまばゆいばかりのご馳走が並びましたが、周囲には警備員が立って、不心得者がご馳走に手を出さないように厳重に見張っていました。もの欲しそうにテーブルへ視線を送る人間を見つけると、警備員たちは、卑しいやつ!という目でにらみ付けました。にらみつけられた人間は野良犬のように卑屈な気持ちになって、おろおろとうつむいて通り過ぎましたが、自分たちの空腹を知りながら、食べられないご馳走を見せ付ける王様のことを決して尊敬しようとは思いませんでした。

 人々の尊敬を失った王様が、その後どのような運命をたどったのかはわかりませんが、ここでは、空腹を男性の性欲に、ご馳走を女性の肉体に置き換えて考えてみたいと思うのです。

 異性を求める男性の欲求は本能に属します。どのような聖人君子でも、目の前に制服姿の女性兵士の写真と、しどけない半裸のダンサーの写真が並んでいれば、恐らく視線はダンサーの方により多く注がれることでしょう。それは彼の卑しさではありません。自然が男性に与えた本能に属する欲求なのです。しかし周囲に人の目があれば、彼は写真を注視することを自制して無関心を装うに違いありません。本能のままに振る舞うのは動物の本然です。そこから少しでも遠ざかりたいと願った人間は、人前で本能に属する欲求の発露を許すことを恥とする美意識を身につけたのです。彼は食堂以外の場所でむやみに物を食べません。食欲は本能ですから、人前では自制するのが聖人君子たるもののたしなみです。どんなに長時間にわたる葬儀でも、読経の最中に居眠りなどはしません。睡眠も本能に属する行為ですから、人前に寝顔をさらすのは無作法なことです。膀胱が破裂寸前でも、決して道端に立って用は足しません。排泄は本能そのものですから、そんな姿を目撃されればたちまち尊敬を失うことを知っているのです。

 ところが昨今は、性欲という男性の本能を知ってか知らずか、若い女性が半裸で公道を闊歩するようになりました。肩をむき出しにするのは当たり前で、胸の谷間からへその周辺、背中からお尻の割れ目まで大胆に露出して平然と街へ繰り出すようになりました。薄い着衣からは黒い下着が透けて、人目を引きたい部分にはフリルが付いています。フリルでは不足と思えば、耳に、胸に、ひょっとすると唇や目尻や腹部にまでアクセサリーを揺らして不特定多数の注目を誘うのです。

 本能を刺激された男たちは、王様のご馳走を前にした空腹の人々と同じです。

 男たちは露出した女性の肌に本能的に魅せられますが、不用意に視線を送ればセクハラの謗りを受けることを知っています。街で、電車で、キャンパスで、もっと見たいという本能と自制を迫る理性との葛藤が日常的に続きます。空腹な人々にご馳走を誇示する王様が顰蹙を買ったように、男たちはやがて、こういう形で自分たちの本能と理性を窮地に立たせて自覚しない女たちに屈折した嫌悪を抱き始めます。こうなると男女の立場の対等を叫ぶ活動家たちが、女性を性の商品にするなと、どんなに声高に叫んでみても、もはや説得力を持ちません。建前とは裏腹に、女性たちの大半は今日も電車の中で手鏡をかざし、あるいはデパートのブティックを物色して、自らの性を商品化する作業に余念がないのです。

 アメノウズメノミコトが天の岩戸の前で元祖ストリップを舞ったように、露出が女性の本能に属する欲求だとしても結果は同じです。自分たちの本能は個性だの自由だのという、美意識にすら到達しない価値を振りかざしておおらかに開放し、それに反応する男たちの本能をセクハラと称して封じ込めて憚らない身勝手さには、知性に欠けた理不尽を感じます。露出は単なる流行で、考察に値するほどの意味はないという見解も女性の立場の弁護にはなりません。流行に流されて慎みを忘れる行動もやはり軽率に傾くことだからです。

 露出する側が明るく笑って、

「ほら、どう?私の肉体はこんなに魅力的よ。思い切ってここまで見せてあげる。もっと見たければ私の心を奪ってごらんなさい」

 と、リオのカーニバルのように、男の本能におおらかに挑戦するのであれば、男たちも晴れ晴れと視線を注いで後ろめたさはありませんが、見られて恥ずかしい部位をギリギリまで見せておいて、そこに注がれる視線の主を、やれセクハラだ、破廉恥だと蔑むから、蔑まれた側は屈折するのです。

 しかし、もう目くじらを立てるのはよしましょう。

 そもそもが男と女で構成される社会です。

 女の肌を恋する男の本性と、露出すれば男たちから歓迎されることを知っている女の本性が一致して、昔ならそこに後ろ指をさされるたぐいの女の生業が成立していた領域が、一般市民にまで垣根を下げたのだと考えれば、事態は実にシンプルです。もちろん、見せたがる女性もいれば、見せない女性もいます。悪しき風潮だと嘆く女性もいれば、自由でいいじゃないかと笑い飛ばす女性もいます。性を商品化するのはけしからんと憤る女性もいれば、自らの肉体をいかにセクシャルに演出するかに腐心している女性もいます。そして、世の中は多様な人がいて文化の風が吹くのです。

 ただ困ったことに、明けても暮れても本能と理性の過酷な相克に苦しむ男たちの目が、力を失って行くことだけは確かなようです。