臆病な若者の原理

平成18年08月04日(金)

 学生の気質は年々変化しますが、特に気になる傾向の一つに対人技術の未熟さがあります。例えば、ついさっきまで教室で親しく話しをして別れた学生が、次に廊下で出会った時は知らん顔をしてすれ違います。たった今、親密な相談に乗った若者が、別の目的で私の前を通り過ぎる時は、会釈どころか目も合わせません。就職情報を入手するために、ある人物を引き合わせた学生は、その結果を報告しないため、私は相手の人物に謝意も伝えられません。就職試験を受けた会社から恐らくは内定を伝える着信が二度あって、また連絡しますという留守電を聞いた学生は、今度こそ携帯に出ようとじれるばかりで、自分から電話をしようとは思いません。定期試験を時間内に終えて教室を退出する学生も、試験監督として立っている教員の存在を石のように無視して、目の前を通り過ぎます。

 考えてみれば失礼な態度ですが、話をすると、みんな心根の優しい善良な若者ばかりなのです。

 どうしてこんな若者が増えたのでしょう。

 一方で、公衆の面前で平然と化粧をする若者が増えました。女性の露出は目にあまるばかりです。道路や床に座り込んで恥じるところがありません。教員が喉を嗄らして講義をしているというのに、聴く学生がペットボトルで平気で渇きを癒します。そして授業に対する反応は年々少なくなるのです。

 これらの傾向を貫く共通原理はいったい何だろうと考えを巡らせて、『ひとに迷惑をかけない』という規範に原因があるのではないかと思い至った時、鮮やかに視界が開けたような気がしました。

 戦争に負けて、それまで命を捧げるほどの苛烈さで国民を律していた価値体系が崩れ去り、自由、民主主義、人権、個性という新しい価値が半ば強制されました。およそ人間の自由を制限するものは悪と見なされて否定され、身分も国家権力も父権も長幼の序も排斥されました。自由が最も重要な価値として信奉され、各人の持つ自由こそが「人権」や「個性」の根本であると考えられるようになりました。しかし各人が自由に振る舞ったのでは社会が成立しませんから、たった一つ、人間を律する規範として登場した金科玉条が『ひとに迷惑をかけない』だったのです。

 自由は、集団よりも個人を尊重します。

 従って、「ひとに迷惑をかけない」という時の「迷惑」の範囲もごくごく個人的なレベルにまで矮小化されて、学生にとって挨拶をすることは、相手にもそれを強いるという意味で、迷惑をかける行為の範疇に入ったのです。彼らは、目上の人に迷惑をかけないよう精一杯気を遣って、挨拶を「遠慮」しているのです。電話をかけるのも同様に、相手の時間に強引に侵入するという意味で迷惑をかける行為として意識されるようになった結果、自分より上位の者に対する時はことさら気を遣い、敢えて連絡を「遠慮」しているのです。一方、車内で化粧をする行為は、誰にも迷惑はかけません。道路に座っていても、道行く人に迷惑をかけません。「奇異」と「個性」の区別もつかない服装で改まった式典に参列しても、誰かに迷惑をかける訳ではないのです。

 ひとに迷惑をかけない…。果たしてそれは人間を育てる時の教育原理として、質の高いものなのでしょうか。確かに迷惑をかけない心がけは大切ですが、幼い頃からそればかりを言われ続けることによって、人と関わることまで「迷惑」の範囲に入れてしまったのでは、人に関わられることも「迷惑」と感じるようになって、対人関係において大変臆病な人間ができあがります。いわゆる指示待ち症候群と称される、現代の若者に特徴的な現象も、余計なことをして迷惑をかけないように配慮する姿なのだと理解すると、その心情は哀れです。

 そろそろ我々は『ひとに迷惑をかけない』という規範を越えて、善悪、美醜をきちんと教える子育ての原理に踏み出さなくてはならないように思います。