領収書の魔力

平成18年08月20日(日)

 自営業を営む人が、会社名義にした高級車を私用で乗り回し、維持費もガソリン代も経費で落としている例を知っています。取引先への進物用に大量に購入する日用雑貨には、もちろん家庭で消費する分が含まれています。家族で外食をすれば、会社宛ての領収書を求めて、これもまた経費扱いです。恐らく日常必要な費用のうち、不自然でないものについては、ことごとく会社の経費として計上することが事業主たるものの才覚なのでしょう。事務所の掃除を行っている妻や、時にお茶を運ぶ程度で実態は専業主婦に過ぎない母親まで社員として登録し、それぞれが所得税を納めても全体として損をしない程度の金額を給与として支給すれば、家族の収入は増える一方で、それは会社の収益から差し引かれて税の軽減に貢献します。この種の行為は節税として意識されたり、常に倒産の不安と背中合わせで経営努力を行っている零細事業主に許された、いわば特権のように認識されていますが、節税でも特権でもなく立派な脱税行為です。

 もちろん似たようなことが社会福祉法人や医療法人で行われていないという保証はありません。それどころか領収書を操作して、利用者からの預かり金を個人的に着服する事件さえ指摘されています。金額の不透明な絵画やシャンデリアを高額で購入した領収書を整えて、相当額のバックマージンを得ている事実などは枚挙にいとまがありませんが、カネが法人会計ではなく個人の財布に入る例もあり、ことが営利を目的としない医療や福祉の分野で起きているだけに明るみに出た時の不快さはひとしおです。

 建設業界では、いわゆる丸投げが横行した時期がありました。工事は受注した業者の領収書を以って支払いの完了が証明されますが、実際には下請け業者に安い値段で請け負わせ、親会社は労せずして多額の差益を得ると同時に、その一部を施主に還元するという巧妙な手口で三つ巴の癒着を構成していました。補助事業の場合の財源には税金が含まれていますから、還元されるカネの相当部分は公金です。建設許可に必要な自己資金を社会福祉法人に一時建て替えてまで施設の建設を推し進めた建設業者は、同じ手口で浮かした補助金の一部で立て替えた資金を回収します。補助に関わる役人を巻き込んでの大規模な汚職事件は記憶に新しいところです。

 サラリーマンの場合は、個々の経費を積み上げる煩雑を避けて、初めから一定の金額の税の控除を行うことによって必要経費を処理していますが、もしもこれが、品目別に基準を設けて必要経費を確定申告する制度に改まったとすればどうでしょう。恐らくたいていのサラリーマンが目の色を変えて領収書の収拾や捏造に血道を上げるのではないでしょうか。例えば書籍代金に限って十万円までは経費として認める制度が誕生したら、友人や親戚を総動員して領収書をかき集めない自信がありますか?

 公務員も同様でした。

 それが血税であるとか、身分が公僕であるという点は別にして、領収書さえ整えれば正当な手続きで現金が手に入り、書類上の不備がなければ監査でも問題にならないという安易さから、予算化できない接待費を中心とした闇の費用を捻出する手段として、国も県も市町村も、恐らく全国的な規模でカラ出張やカラ会議に手を染めました。カラ出張の場合は費用の発生は職員個人ですが、一旦個人に支給された旅費を再び徴収するなどというあからさまなことはできませんから、予算執行単位ごとの一定の部署で組織的かつ集中的に裏金の調達が行われていたのではないでしょうか。たいていの自治体が膿みを出し切って後ろめたさからようやく回復を果たし、世間もそのことを忘れ始めた頃、使い切れない裏金の処理に窮した岐阜県の実態が今回表面化したというところでしょう。金額の多寡よりも、大胆に消費もせず、かといって、隠しおおすこともできず、おろおろと担当者レベルでうろたえている様子に、おおらかな田舎に紛れ込んだような、ある種のおかしみを感じてしまいます。

 どんな形で誰が責任を取ることになるのかということにさしたる関心はありません。それよりも自分自身を含めて、手続きさえ正しければ不道徳な動機には目をつぶり、領収書の魔力に屈して不正に手を染めてしまう人間の弱さに興味があります。古今東西後を絶たないこの種の犯罪は、条件さえ整えば芽を吹く植物の種子のように、今後も無くなることはないと思わなくてはなりません。大切なのは、人間の「悪」を前提にその発芽を防ぐシステムを構築することでしょう。人間の弱さをくじくシステムをあらかじめ組織が用意するという意味において、人間はまた、かろうじて「善」でもあるのではないかと思うのです。