自由と個性の関係

平成18年08月29日(火)

 自由と個性がもてはやされています。

「電車で化粧して何が悪いのよ。誰にも迷惑かけてないから私の自由でしょ」

「ズボン下げて履いたってそんなの俺の個性じゃん。第一、誰にも迷惑かけてないだろ?」

「やだ、胸が開いてるからって見る方がいやらしいんじゃない。誰にも迷惑かけてないし、ファッションは私の個性なんだからね」

「恋人同士が駅で抱き合ってキスしたってどこが悪いの?誰にも迷惑かけてないし、自由じゃん。そういうの見ないふりするのがエチケットってもんだろ?」

 自由と個性が持ち出されると、そこにはたちまち堅牢な聖域が出来上がって、教育も躾けもたじろぐばかりです。しかしことさら騒ぎ立てなくても、本来人間は自由で個性的な存在なのではないでしょうか?

 文明以前を考えて見ましょう。人間は狩猟採集で生活していましたが、人一倍働く自由もあれば、人が働いて得た食料を奪うのも自由だったはずです。奪われれば奪い返しに行って、奪った人間を殺す自由もあったでしょうし、力が勝れば奪い返しに来た人間を返り討ちにするのも自由だったでしょう。徒党を組んで近くの集落を襲う自由もあれば、武装して集落を守る自由もあったでしょう。しかし、そんなふうに人々が自由に振舞ったのではおちおち眠ることもできないので、やがて安心して暮らすためのルールができました。奪う自由を放棄し、殺す自由を放棄し、隣の集落の領域を侵す自由を放棄し、武器を持つ自由を放棄しました。人間社会は構成員がそれぞれの自由を放棄する見返りとして一定の安定を得たのです。

 個人の発達を考えてみても同じことです。赤ん坊は自由です。泣きたい時に泣き、眠りたい時に眠り、危険なものでも平気で口に入れ、それを制する母親を叩き、時と場所を選ばずオムツを汚します。それが成長に従ってトイレでの排泄を訓練され、食べてはいけないものを学び、泣くことを我慢し、やがて生活のルールを学習します。つまり、人間の発達は集団的にも個人的にも自由を放棄するプロセスなのです。残念ながら国家レベルではまだ武器を持つ自由を放棄したり殺す自由を放棄する段階には至ってはいませんし、特定の時代には支配者の自由の拡大のために被支配者の自由が過度に制限されるということがありましたが、巨視的に見れば人間は自由を獲得する歴史ではなくて、放棄する歴史の途上にいることは間違いがないのです。

 日常レベルでも私たちは自由です。職場を無断で休む自由も、気に入らないやつを殴る自由も、他人のカバンからおカネを盗む自由も、外を裸で歩く自由も持っています。法に触れたり制裁の対象になる行為は、それを行う自由を放棄しなかった人だけが三面記事を賑わすことになりますが、法や制裁がなくても、どんな自由を放棄して生きているかということが実はその人の生き方を表現しています。電車で化粧はしない、過度の露出はしない、公衆の面前でものは食わない、人前でキスはしない、歩き煙草はしない、乱暴な言葉遣いはしない…。いったいどんな自由を放棄しているのかということの総体がその人間の人柄、つまり「個性」なのです。

 してみると、「自由」と「個性」を、侵しがたい価値のように扱う育児や教育は間違っています。むしろ、どんな自由を放棄すれば人として美しいか、お互いに気分がいいかを教えるのが育児であり教育なのです。その延長線上でさらに個人が様々な自由を放棄した結果できあがった「生きる形」がその人の個性なのです。完璧に自由な存在である動物から、自由を放棄し放棄して、私たちは人間になったのです。

 ただ残念なことに、冒頭に登場した若者たちは既に教育の年齢を過ぎています。

 職場内教育と本人の自覚に待つほかはありません。