信頼できる社会の再構築

平成18年01月16日(月)

 湯水のようにという言葉が象徴していたように、安全で、ふんだんに存在するものの代表であったはずの「水」が、ペットボトルに入って自動販売機で売られるようになりました。

 かつては縄跳びや落書きや、ひょっとすると草野球の舞台でもあった道路は、自動車が主役になって、子どもたちは遊ぶどころか、横断するのに高々とした歩道橋を渡らなくてはならなくなりました。

 学校に変質者が乱入して無差別に児童に切りつけたり、登下校時にさらって殺害したりするようになったため、子どもたちは保護者同伴で移動しなければならなくなりました。

 相当数のマンションやホテルが、設計段階から耐震基準をごまかして建設してある事実が発覚したため、自分の住んでいる建物の安全性については、個人で確かめなくてはならなくなりました。

 規模の大きな催事では、無差別テロを警戒して参加者のボディチェックを行わなくてはならなくなりました。

 世界一安全であることを誇っていたはずの極東の島国は、年を追って危険な国に変貌を遂げています。水や空気や道路のような物的環境はもちろんですが、社会に対する信頼が揺らいでいるのは困ったものです。社会を構成しているのは人間ですから、ここで改めて信頼できる人間の条件について考えてみようと思うのです。当たり前のことばかりを書き連ねることになりますが、末尾に述べる非常に具体的な提案にたどりつくための思考過程ですので、どうか辛抱してお付き合いください。

 私たちは可能性だけを秘めて、ほとんど何もできない無力な状態でこの世に誕生します。やがて首が座るだろう、一年もすれば歩くだろう、そのうち言葉を話すだろう、友達もできるだろう、そして一人前の社会人になるだろう…。しかしこれらの可能性の大半は、放置しておいて実現するものではありません。オオカミに育てられた少女が四ツ足で歩いて遠吠えをしたように、発達の早い時期の人間は、人間としての行動様式のほとんどを、「模倣」という本能を駆使して学習によって身につける動物なのです。

 してみれば、あらゆることが学習以前の状態にある乳幼児ほど信頼できない存在はありません。親の都合などお構いなしで、空腹だといっては泣き、おむつが濡れたといっては泣き、食べてはいけないものを口に入れ、危険な場所へ接近し、最近ではその理不尽ぶりに疲れ果てた親の手によって、命を落とす悲劇さえ珍しくありません。それでも何らかの欲求に駆られた赤ン坊は、泣いて泣いて、誰かが満たしてくれるのを信じます。つまり人間のスタートは、信頼されることではなく信頼することから始まるのです。

 この時期の対応で、おそらく人間の最も原初的な生きる姿勢が決まります。幼い信頼に応えて、やさしく欲求を叶えられた赤ン坊の心には、他人を信頼する力が育ちます。それはやがて他人から信頼されたい欲求へと進化を果たします。言い換えれば、信頼ということを挟んで人と向き合う基本姿勢を身につけるのです。一方、冷たく無視されたり拒否された赤ん坊の心には、他人を信頼する力は育ちません。彼は信頼とは別の基準で人と関わって行くことになるでしょう。その程度が人によって様々で、どちらが幸せとも言いきれないところに人生の闇が口を開けています。信頼の欲求の強過ぎる人は、太い絆で結ばれた人間関係を望むあまり、容易に人に裏切られ、或いは引き受けた信頼の重圧に潰れます。信頼の欲求の希薄過ぎる人は、行動や精神の自由と引き換えに、確固たる居場所のないよるべなさに耐えなくてはなりません。たいていの人は、そこそこの信頼と猜疑との狭間で針を揺らしながら生きてゆくのです。

 さて問題はその後です。

 身につけた信頼と猜疑の触覚を頼りに、人は社会的存在へと成長を果たすことになる訳ですが、成長の最終目標は一般社会での自立した大人であることは言うまでもありません。一般社会とは、利害の対立する他人同士が、協力したり対立したりしながらも、互いの安全を脅かすことのない範囲で折り合いをつけて生活を送る場所ですから、混乱を回避するための規範や秩序が、人為的、あるいは自然発生的に存在します。とすれば、信頼できる大人とは、社会の持つ規範や秩序を尊重して逸脱せず、他人と折り合いをつけて生きてゆく能力を有する人間を指すのです。ここで大切なことは、繰り返しになりますが、人間が行動様式のほとんどを学習によって後天的に身につける動物であるという事実です。信頼できる大人の行動様式も、経験を積むことによって学習しなければなりません。ですから、昔から社会にはそのための訓練機関が、成長に応じて段階的に用意されていたのです。

 まずは家庭です。両親という無条件に保護的なメンバーの庇護の下で、子どもは家族構成員との日常的な摩擦を通じて家庭内の基本的な規範や秩序や他人と折り合いをつける技術を学びます。家族という運命共同体での出来事ですから失敗しても深刻なダメージにはなりません。子どもは両親の信頼を得ようとして、或いは叱責を免れようとして、或いは経験した不利益を避けようとして、若しくは同様の利得を得ようとして、初歩的な社会性を身につけるのです。

 次に、学習した未熟な社会性を武器に保育所に参加します。ここには保護してくれる両親はいません。保育士というリーダーの指示によって営まれる集団生活は、初めて経験する他人ばかりの社会です。折り合いをつける能力の高い子どもは保育士から信頼され、仲間から受け入れられて、集団生活に親和感を持ちますが、家庭での訓練が不十分で、他人と折り合いをつけるのが下手な子どもは喧嘩をし、保育士を困らせ、叱責を受ける機会が増え、仲間から排除されて、集団に違和感を抱きます。違和感を抱きながらも、摩擦の多い集団生活を継続する過程で行動が修正されて適応が可能になれば、仲間との喧嘩も減り、受け入れられ、やがて違和感も和らいで、彼は家庭での訓練不足を保育所で補うことができるのです。発達が早期であればあるほど基本的な訓練は容易です。保育所の存在意義は、実は早期発達段階における社会性の訓練機能にあるのです。そこに、わが子に対する叱責を非難する保護者や、保護者からの評判を気にする保育士や、自由こそ個性を伸ばす最良の土壌であると信じる管理者がいたりすると、集団から逸脱する子どもたちは逸脱に任せて放置されることになります。そして残念ながら国民の権利意識の高揚や、少子化の進展や、何よりも欧米の自由主義の表層的な妄信と共に、我が国はその傾向が顕著だったと言わなくてはなりません。

 その結果、一定の集団適応を果たしていることを前提に知育を期待されている義務教育が学級崩壊の危機にさらされ、延長線上の高校が化粧を競う場所になり、大学はサファリパークの様相を呈し、社会は音を立てて信頼を失っているのです。

 誤りは明らかです。

 人間は、人間としての行動様式を学習によって身につける動物であり、家庭も保育所も学校も、そのための訓練機関として存在するのです。その目的を忘れ、幼児にも大人と同様の人権を認め、意思を尊重し、機嫌を損ねないように過度の配慮をして、知育に偏った生活をさせた結果、規範も秩序も守れない人間が社会に出るのです。折り合いをつける訓練が不足していますから、対立に遭遇するとすぐにキレ、簡単に傷つきます。そうなると、周囲はキレられても困るし、傷つけたくもありませんから、腫れ物に触るような対応になって、彼はいよいよ社会性を学習する機会を失うのです。家庭は人間が一番最初に所属する社会です。そこには、社会性、つまり、複数の人間と折り合いをつける訓練を行う機会が存在しなげればなりません。ところが、核家族化と少子化が家庭という社会を極限まで小規模にしました。両親と一人二人の子どもだけで構成されるグループは、親の側がよほど意識して小さな対立を演出したとしても、もはや社会性の訓練には適しません。大家族で、両親、祖父母、叔父叔母や兄弟姉妹の利害が複雑に錯綜し、誰かと一時的な緊張関係に陥っても誰かがとりなすといった生活の過程で、謝ったり気を取り直したりしながら、子どもたちは嫌でも対人技術を習得したのです。両親が、子どもの代わりに考え、子どもが失敗しないように配慮し、他人とのトラブルをできるだけ回避することに汲々としている核家族には、信頼を依存に変質させる弊害はあっても、子どもが社会性を学習する機会はありません。

 だとしたら…最も発達の早期である保育所の重要性を見直さなくてはならないように思うのです。養育要件に欠ける家庭の子どもの保育を実施する福祉機関という位置づけを改め、家庭が失った社会性訓練機能を代わって果たす訓練施設として義務化すべきだと思うのです。訓練というと誤解を招く響きがありますが、思い出してください。社会性は学習によって身につけるものです。人は学習を通じて社会性を身につけ、人間に成ってゆく存在です。必要な時期に必要な学習機会を提供することは、発達保障そのものなのです。一定の時期に言葉を覚える機会がないと、言語能力は容易に開花しないように、社会性という長期にわたる学習の開始に際しても、最適な時期があります。かつて家庭や地域が果たしていた機能を喪失した以上、その再生を待つのではなく、それに代わる機関を創設するしかありません。知育の基礎であり、身につけた知識を世の中で生かす基礎でもある社会性を、発達の早期から訓練された人間こそ、信頼できる大人として信頼できる社会を構成するのです。

 保育所の機能の見直しと義務化。

 新しい機能を果たすための保育所の規模や保育士の資質や日課のあり方までここで考察するつもりも能力もありません。潮が満ちるようにひたひたと押し寄せる社会に対する信頼の崩壊の原因を、構成員である一人一人の人間の社会性の欠如に求める立場に立って、犬の遠吠えのような提案を行った次第です。