自由な性

平成18年10月01日(日)

 確かエイズ関係の研修会だったと思います。

 感染予防に躍起になった国は、毎年普及啓発を目的とした多額な予算を地方に交付しましたが、年を重ねるに従って研修内容も多義にわたり、その年のテーマは「同性愛」でした。

 細身の黒いスーツに身を包み、満面の笑みを浮かべて登壇した講師は、

「あたし、こう見えても元暴走族だったのよ」

 女性と仲よくする族のリーダーに嫉妬して、自分が同性愛者だということを自覚した過去を告白しました。それ以来、同性愛者であることを隠さないで生きて来たという講師は、事実を知らせた時の両親の嘆きや、社会から受けた偏見の数々を紹介しながら、私たちの心に住む、異質なものに対する差別意識を浮き彫りにし、それでも守り抜く「自分らしさ」の意義を訴えて講演を終えました。

「ありがとうございました。ここで貴重なお話を下さった講師に感謝を込めて主催者から花束を…と思いましたが、それでは余りにありきたりですので、ちょっと趣向を凝らしてみました。さて気に入っていただけるといいのですが…」

 進行係がそう言って会場の隅のボタンを押すと、講師が背にしていた一面の壁が突然真ん中から割れて左右にスライドし、ふもとに長良川を従えて青々とそびえ立つ金華山がまるで映画のように現れて、山頂の岐阜城が青空の中にくっきりと浮かんでいました。

 聴衆もどよめきましたが、

「うわあ!すご~い。綺麗!素敵!こんなの初めて!ありがとう。何より嬉しいプレゼントだわ!」

 感動した講師は、一旦広げた両腕を胸の前で組み、

「こんな素晴らしい景色を見せて頂いて、あたしの方から主催者の皆さんに感謝しなければなりません。本当にありがとう」

 ステージを終えたダンサーのように、参加者全員におじぎをして颯爽と会場を去りました。

 実はその瞬間に、私は講師が言葉を費やしたどの説明よりも鮮やかに、自分らしく生きることの意味を理解したのでした。

 「性同一性障害」を抱える人の苦しみは察して余りありますが、肉体は男性で心が女性であることを素直に受け入れた講師の自由な生きざまはどうでしょう。ある時は男よりも男らしく、私語を交わす参加者を睨みつけたかと思うと、ある時は女より女らしく、うわあ!綺麗!と喜びを露にするのです。男が男であることによって縛られている「男らしさ」からも開放され、女が女であることによって逃れられようもない「女らしさ」からも解き放たれて、自由なのです。そういえば、女の格好をし、女の言葉を操ってマスコミに登場するあの男性も、あの男性も自由です。もちろん好んで性同一性障害になる訳にはいきませんが、年を経れば、ひょっとすると男からも女からも自由になって、「としより」という名の人間そのものになれるのではないかと密かに期待しているのです。