いじめ報道

平成18年11月03日(金)

 いじめを苦に自殺する子供が後を絶ちません。

 一旦はいじめの存在を認めた学校が、翌日はいじめの事実を否定して非難の砲火を浴びています。

「なぜ学校は事実を認めないのですか!そういう隠蔽体質が学校に対する生徒の信頼を失わせるのです。教員が自己保身ばかり考えて、少しも生徒の方を向いていない。それではいじめはなくなりません。そんな先生には辞めていただきたいというのが、一般の正直な気持ちですよ」

 しかし、もしも学校がいじめの事実を公式に認めたとしたら、次はどんな展開が待っているでしょう。

「いじめの事実があった以上は、加害者の氏名と、いじめの内容を明らかにしてもらいましょう。人が一人死んでいるんです。きちっと罪を認識して反省させるためにも、また、二度とこのような悲しいことが起きないように警鐘を鳴らすためにも、学校で何が起きていたのか、これははっきりさせなければなりません」

 加害者が明らかになると、報道の自由と知る権利を振りかざした若いレポーターが通学途中の生徒にマイクを向けます。

「君は亡くなった○○さんがいじめられていたのを知っていましたか?」

「それを知っていてどう思いましたか?」

「知っていて何もしないということは、自分もいじめる側に回っているとは思いませんでしたか?」

 こうしてさんざん傷ついた子供たちの心のケアのために、学校にスクールカウンセラーが派遣される一方で、加害者と認定された子供の家庭を写真週刊誌のカメラが狙います。

『いじめる側の家庭環境に見る驚愕の共通点』

『いじめの加害者の両親は教員だった』

『愛のない家庭・いじめに隠された、愛されない子供の叫び』

『ごく普通の家庭・家ではいい子・ひょっとすると、あなたの子供もいじめの加害者?』

 電車の吊り広告に扇動的なみだしが踊り、目隠しがしてあっても知っている人にはそれとわかる顔写真付きで、いじめた子供の両親の過去や家庭内の不和や借金までが暴き立てられます。

 やがて被害者の親が加害者の親を訴えたりすれば事態は泥沼です。

「お前が弱い子をいじめたりするから、こんなことになってしまったんだぞ!」

「だって、みんなやってるし、いじめないと今度は私が無視されるし…」

「あなたまでこの子を責めないでよ。そんなことで死ぬ方が弱いのよ。私たちが子供の頃だって、いじめはあったわ。いじめたり、いじめられたりしながら大人になったのよ。死ぬなんて最大のいじめじゃない。これじゃあ、うちの子が被害者だわ」

「うるさい!お前のそういう考え方がこいつをこんなふうに育てたんだ」

 加害者の家庭はじわじわと崩壊し、今度はいじめた子供の遺書が発見されたりすれば…。

 恐らく学校は、教員の自己保身などではなく、そこまで想像を巡らせたあげく、

「直接自殺につながるようないじめは確認できませんでした」

 という発表にとどまってしまうのではないでしょうか。

 容赦ない非難と共に連日放映される校長の苦しい記者会見の様子を、校長の妻が、子供が、孫が、年老いた親が、友人が見ているのだと思うと、やがて校長自身が死ぬのではないかと心配になってしまいます。

 もちろんいじめは許せません。許せませんが、一連の報道姿勢に疑問を感じるのもまた正直なところです。テレビカメラは、子供を亡くした遺族の、血を吐くような悲しみの一部始終を撮影していたはずなのに、学校に殺されたのだと取り乱す部分だけが電波に乗って、土下座する校長の映像と共に繰り返し繰り返し日本中を駆け巡ることが、渦中の関係者だけでなく、一般的な意味で、学校や教員に対する信頼の回復につながっているとはとても思えないからです。

 先生が生徒に注意をしたところ、翌日生徒が学校を休み、理由を尋ねる両親に、先生にいじめられたと報告したために、ちょっとした騒ぎになって、それ以来先生は生徒に注意ができなくなったという話しを聞きました。

 授業中にトイレに行かせてほしいと言う複数の学生が、実は外で携帯メールをするのが目的であると知った教員が授業中のトイレを禁止したら、生理的欲求まで制限するのはいじめではないかと問題になりました。

 どうやら『いじめ』という言葉がひとり歩きを始めたようです。初歩的なミスをした野球部員に、

「何やってるんだ、レギュラーだろうが!やる気がないなら辞めちまえ!」

 はもう言えなくなりました。本当に部員が部活に来なくなれば、教員によるいじめと認定されてしまいます。教員が言わなくても、先輩部員の不用意な言葉に下級生が傷つけば、教員はいじめを見過ごした責任が問われます。果たしてこんな逃げ腰で、教育が成立するものでしょうか。子供たちは教員の弱みにつけこむことにかけては実に巧妙です。これからは、不愉快な思いをする度に「いじめ」という魔法の三文字さえ唱えれば、たちまち周囲はひれ伏して王様になれるのです。

 人間の生活は飽くことなき感情表現の連続ですから、「いじめ」と呼ぶかどうかはべつにして、大人の世界も子供の世界も、互いに精神的なダメージを与えたり与えられたりして成立しています。時には所属する集団の中で孤立して、四面楚歌の日々に耐えなければなりません。何度でも気を取り直すしたたかさと、限界と見れば逃げ出すしなやかさを身につけたものだけが、人生という荒海を乗り切ることができるのです。いじめを容認するつもりは毛頭ありませんが、学校という対人関係の練習場で、傷ついたり傷つけたりする経験が子供たちを鍛えるのです。いじめだと糾弾されることを恐れて、学校を上げて生徒に不愉快な思いをさせないことに汲々とする余り、子供たちから対人摩擦という貴重な経験を奪ってはなりません。私たちは、社会的非難の対象になるという空気が生じてしまえば、言葉狩りに血道を上げるような極端な心情の民族に所属しています。子供たちを傷つける言動のないようにという文科省の通達によって、教員が腫れ物に触るように生徒に接するようになることを恐れます。誰かが誰かを傷つけなかったかどうかの点検が、ホームルームの日課になることを恐れます。繰り返しますが、学校は学業習得の場であると同時に、対人摩擦に対する対処技術の練習場なのです。過保護過干渉の環境を、家庭から学校にまで広げてはなりません。

 話を報道のあり方に戻しましょう。

 今回のコラムのタイトルは「いじめ報道」です。

 川に大量の魚が浮いたとしたら、原因は川の水質にあるように、執拗ないじめも、安易な自殺も、そこには社会の病理が想定できます。言い古されたことですが、私は人間の感情の統合機能に対して、報道、とりわけテレビがもたらす影響について、改めて考え直す必要があるように思います。

 いじめ自殺をセンセーショナルに放送すれば視聴率が上がります。専門家を集めて校長を糾弾すれば視聴率が上がります。加害者の家庭をマイクを持って直撃すれば視聴率が上がります。目に悪いと解っていながら、溶接作業の青いスパークに視線を向けてしまうのと同様に、我々は強い刺激には抗し切れない生き物なのです。

 自殺した子供の葬儀の席で土下座する校長の姿がアップになったところで、

「この番組は食卓においしさをお届けする○○の提供でお送りします」

 という爽やかなナレーションが流れて、何事もなかったように幸せな家庭の朝食風景が映しだされることが、どれほど人間の心を蝕んでいることか…。

「今、番組のスタッフが、お子さんを亡くされたご遺族のインダビューに成功しました。大切なお子さんを失った悲しみと怒りの声は、一旦コマーシャルをはさんでお送りします」

 と中断されて、汚れのよく落ちるトイレ洗剤の広告を見せられる視聴者の感情は、番組同様、コマーシャルの度に寸断されて、人間として失ってはならない精神の統一性を損ないます。どんな惨状もどこか他人事で、いじめる側はいじめられる側の痛みが想像できず、死ぬ側は事の重大生が認識できない病理の背景には、幼い頃から感情の統合を中断されて育った人間の悲劇が存在しているような気がしてなりません。具体的にどうすればいいのかは判りませんが、そろそろ我々は、テレビという名の四角い箱の放つ毒に気がついて、上手に付き合う方法を考える時期に来ているのではないかと思うのです。