貞子の増殖

平成18年12月16日(土)

 高山市の城山公園のふもとにベージュ色の古びた平屋があって、『福来博士記念館』という看板が日焼けした文字をさらしています。もはや訪れる人も少なくて、隣接する茶店が管理を任されているのでしょう。

「こちらでコーヒー一杯でも飲んで下されば無料でご覧頂いていますよ」

 あるじの許可を得て、冷たい緑のスリッパを履いた私は、館内に足を踏み入れたとたんに異様な悪寒に襲われました。展示物といえば、無数の白黒写真だけなのですが、説明パネルによれば、それらの写真は全て明治の女性が行った『念写』なのです。

 念写…。

 人が何かを強く念じることによって密封されたフィルムが感光する現象を発見、研究し、一躍世界的注目を浴びた福来博士は、次々と念写の実験を行いましたが、手続き上の不備の指摘や失敗が相次いで、やがて詐欺師の汚名に追われるように学者生命を断たれます。その顛末の紹介と、研究成果の顕彰を目的とする記念館の空気は、人間の「想念」が物理的エネルギーを有しているという主題に満ちていました。

 判別できない文字…弘法大師の肖像…月の裏側…ありふれた風景写真…。

 元来、時を経た白黒写真は気持ちのいいものではありませんが、それが実在するものではなく、はるか昔の明治の女性の脳に生起した想念の定着であると思うと、その写真からも刻々と想念の粒子が放出されているような気分に襲われて鳥肌が立つのです。

 想念はエネルギーを持っている。

 記念館を訪れた一人の若い作家が、そのことをモチーフに『リング』という小説を書きました。

 想念の強さゆえ、感情のイメージをテレビにまで受像させてしまう能力の持ち主の貞子という女性が、頭を斧で割られて古井戸に投げ込まれます。井戸の底でしばらく命のあった貞子の恐怖は、人間を呪う強力なエネルギーを放出したまま時が経ち、井戸の上にはペンションが建ちました。ある日、井戸の真上の部屋に宿泊した家族の子どもがビデオテープを持ち込み、いつも観ている番組の録画を予約したまま忘れて帰るのですが、ビデオには井戸から放出される貞子の怨念のイメージが録画されてしまいます。そして、次に同じ部屋を借りた若者たちが、そのビデオを観てしまうのです。

 ストレスが続くと胃壁に潰瘍ができるように、我々の心と体は直結している訳ですが、強力な貞子の怨念を映像の形で取り入れることによって同じ恐怖にさらされた若者たちの心臓には、同じ速度で腫瘍が成長し、ビデオを観てから正確に一週間後に悶絶の突然死を果たします。

「おい、恐いビデオ、観てみるか?」

 『呪いのビデオ』としてダビングを繰り返しながら密かに増殖する貞子の怨念は、ダビングした人の心を、人間を呪う方向に変化させて延命を許す一方で、ダビングしなかった人の命は一週間で奪うことに気付いた主人公が、全てのビデオを処分して怨念の増殖を阻止するのですが、今度はそれを題材にした小説が世に出ることで、貞子の怨念は活字を媒体に増殖して…。

 『リング』は、映像や活字を媒体に人間の想念が無限に増殖して受け手の心を変質させてゆく恐怖をテーマにした点で功績がありました。映画にもなったあの作品から、ホラーとしての娯楽性を取り除くと、メディアの在り方に対する大変真面目な警告のメッセージが浮かび上がります。人間の思いが、善悪の区別なく、いや、むしろ刺激の強さゆえに『悪』の想念こそが電波や活字に乗って増殖してゆく現代社会の危険性を鋭く指摘しているのです。

 児童の死体に性的高揚を感じる性癖を持つ現役の教員が、交通事故死した児童の写真を自分のホームページに無断転載した上に、死者を冒涜するコメントを添えて問題になりました。我が子の写真に添えられた、余りにも残虐な表現に傷ついた遺族は告訴に踏み切りましたが、その表現をそのまま紹介して教員の異常性を検証する記事が、週刊朝日に掲載されました。電車の吊り広告にも、最も残虐な表現の一つがそのまま紹介されて、衆目を集めていました。意図は社会正義に基づく事件の糾弾なのでしょうが、読む側の心には実に不愉快な感情が生まれます。私はすぐさま貞子の増殖だと感じました。

 進化の過程であらゆる経験を重ねた結果今日に至っている人間の心は、海のようなものだと思います。誰もが日の当たる海面近くを見せ合って、善良な市民の一人として生活をしていますが、恐らく深海には得体の知れない欲望や性癖や感情が渦巻いていることでしょう。だから状況によっては、思いがけない人が自殺をしてみたり、殺人をしてみたり、また、戦争のような異常事態になると、平時では想像もできない破廉恥な行為に及ぶことがあるのです。想念は、念写に結びつくようなエネルギーを有するかどうかは別にして、表現し、共感を求め、仲間を増やしたがるという意味で、増殖のエネルギーを持っています。それにメディアが手を貸すのです。映像や活字を媒体に、異常な欲望や性癖に触れた側は、愉快にせよ不愉快にせよ、その種の領域に対する垣根を低くします。低くなった垣根を越えて、深海に眠っていた同種のエネルギーが海面に出てくると、それを『連鎖』と称してメディアは嬉々として報道し、さらに垣根の低下に力を貸すのです。

 遺族が告訴に及ぶほど犯罪性のある残虐な表現を、そのまま週刊誌に紹介する必要があるのでしょうか。吊り広告に掲載して、子どもを含む不特定多数の目にさらす必要があるのでしょうか。

 リングには『輪』の他に、『徒党』、『一味』、『一団』という意味があって、あまり良い目的を持った集団には使われません。

 言論の自由、表現の自由、報道の自由、知る権利などの美名に隠れて、実質的には異常な想念の持つエネルギーの増殖に手を貸す一味に加わっているとしたら、それは結果的に呪いのビデオをダビングする側に回っていることになるかも知れません。