飛び道具とは卑怯なり

平成18年01月20日(金)

 『三匹の侍』という古い時代劇をビデオで観ました。百姓と役人の抗争に巻き込まれた三人の浪人たちが悪家老一派を懲らしめるという、典型的な勧善懲悪ストーリーで、丹波哲郎、平幹次郎、長門勇という個性派俳優の演技が光っていましたが、小屋に立てこもる三匹を役人の鉄砲が狙うシーンで、突然古典的な台詞が頭に浮かびました。

「飛び道具とは卑怯なり!」

 聞かなくなって久しい台詞ですが、飛び道具が卑怯な時代があったのですね。

 しかし、どうして飛び道具が卑怯なのでしょう。飛び道具が卑怯だとすれば、近代の戦争は全て卑怯ではありませんか。ところが、三匹を鉄砲で狙う役人を、私は確かに「卑怯」だと思ったのです。

 理由を考えてみました。

 剣と剣であれば、鍛え上げた腕前を存分に発揮して互いに切り結び、気力や時の運も含めた、実力の差によって勝負が決まります。勝つ側も負ける側も、結果には納得するしかありません。しかし飛び道具が相手では、技術も気力も運も、何の役にも立ちません。飛び道具を持っているという事実が勝敗を決めるのです。それに飛び道具は相手と向き合う必要がありません。むしろ相手の気が付かない場所に潜んで引き金を引く方が、たやすく目的を達することができます。つまり相手と向き合わず、対等ではない条件の下で雌雄を決することを恥じない心根を称して「卑怯」というのだと思い至った時、現代の病理が見えて来ました。

 文明の進歩は分業化を伴います。分業化は人と人が直接向き合う関係を容赦なく分断します。直接向き合わない関係に慣れてしまえば、互いに相手の気が付かない場所から引き金を引くことが平気になって、卑怯な振る舞いが日常化します。

 例えば、直接消費者と向き合わない農家は、市場に出荷する生産物については安全性より商品価値を優先しますが、

「うちで食べる分は安全だよ。農薬を使わないからね」

 などと胸を張って言われてしまうと、そこには卑怯な匂いがします。

 広くもない事務所なのに直接言葉を交わすのを避け、

「最近駐車マナーの悪い車があります。白線の内側に入れるようにしてください」

 などとメールで伝えられるのも、どこか飛び道具で不意打ちを食ったような感じがします。

 担任の不都合を教育委員会に匿名で訴えるのも、交通事故の処理を保険屋さん任せにして知らん顔するのも、パソコンにいかがわしいメールを送りつけて法外な請求を行うのも、株価を操作して有利に売り抜けるのも、耐震設計を偽装して危険な建物を売りつけるのも、同じ卑怯の匂いがするのです。

 その結果現代人は、遠くから飛び道具で相手を狙う狙撃者のような心根になりました。

 技を磨き、精神を鍛え、胸を張り、

「我こそは○○なるぞ!」

 と名乗りを上げて対等に相手と向き合う武士の誇り高さからは遥かに遠ざかりました。

「飛び道具とは卑怯なり!」

 どうですか?

 ここまで考えてくると、この台詞は、戦いの場面を越えて大切なことを訴えかけているような気がしませんか?

「よいか!堂々たる人生の手応えは、情報を操作しながら上手に立ち回ることなどではなく、身近な人ときちんと向き合うところから得られるものなのだ」

 三匹の侍は狙撃者を蹴散らし、悪家老を懲らしめて、ゆったりと引き上げて行きました。