出雲大社と伊勢神宮

平成18年03月31日(金)

 久しぶりに訪れた出雲大社は、半世紀ごとに行われる檜皮屋根の葺き替えを五年後に控えて、蒼古として鎮まり返っていました。観光バスが到着する度に、旗を掲げたガイド嬢に率いられた集団が境内に現れては、二礼四拍手一礼という珍しい参拝形式に戸惑いながら、神殿にこうべを下げて再びバスへと戻って行くのですが、突然はたと気がついたのは、伊勢神宮の「おかげ横丁」に匹敵する参道の賑わいがないのです。

 調べてみれば、神殿から石の階段を下りて松林を貫く参道を抜け、正面の大鳥居をくぐると、はるかかなたの大社駅まで延々と門前町の家並が続いてはいるのですが、神殿のすぐ脇、つまり大鳥居とは全く反対の位置に、観光バスも乗用車も大量に収容する巨大な駐車場を設置したために、車を降りた参拝客はほとんど歩くことなく、一般家庭で言えば勝手口から境内に入り、参拝を済ませると車に戻って次の行程へと移って行くのでした。観察した様子では、わざわざ大鳥居までの松林を歩いてやろうという人は少なく、ましてやその先の門前町まで足を伸ばす者もいないため、町はさびれていました。大社駅につながる路線が廃線になった影響も大きいのでしょうが、みやげ物店は軒並み店を閉め、旅館も何軒か廃業して、人影もまばらなうらぶれた町の様子は、伊勢神宮の賑わいとは対照的でした。

 そこで思うのです。

 神社に限らず人間の営みには、周囲を潤す存在であるかどうかという評価の観点があるのではないでしょうか。

 温泉地に建設された巨大観光ホテルが、利益の独占を意図してあらゆる飲食や遊興設備をホテル内部に設ければ、周辺に店を構える個人経営者にとっては打撃です。街に繰り出す人が減り、従って街を彩る店舗が減れば、繰り出す人はさらに減って、ホテル周辺はさびれます。下駄の音を響かせて浴衣姿でみやげ物店をひやかして歩く散策の楽しみのない温泉地は観光地としての魅力を失って、結果的にホテルの利用客も減少するのです。

 病院も同様です。中に見舞い客用の食堂を設け、喫茶店を設け、花屋も、果物屋も、売店も、床屋も、ひょっとすると衣料品店まで揃えれば、周辺に通院患者や見舞い客相手の街は広がりません。大学も然り、文化施設も然りです。ましてや大型店舗の出店となると、そのために近くの商店街が消失する例は全国に珍しくありません。食料品も衣料品も玩具も文房具も、もちろん食堂からゲームセンターまで巨大なコンクリートの箱の中に整えて、一つところであらゆる欲望が満たされる代償に街の賑わいを失った私たちは、それを「三丁目の夕陽」のようなレトロな映像で懐かしがっているのです。

 出雲大社を笑えません。

 そして、ここまで考えて来ると、果たして私自身は周囲を潤す存在であるのかどうか、にわかに自信をなくしてしまうのです。