事実には意味はない

平成18年04月06日(木)

 桜が咲きました。

「花は桜木、人は武士。ぱあっと咲いてぱっと散る。この潔さと、はかなさがたまらないよなあ…」

 などとしみじみ盃を傾ける男性をよそに、

「桜って散ると花びらが汚いのよね」

 と眉を寄せる女性がいます。

 事実は、桜が咲いているだけのことなのです。

 事故で怪我をした男性が二人、同じ病院で治療を受けています。

「ったく、ついてねえよな、下から二番目のアバラが折れてんだって。相手は初心者マークの大学生だぞ。済みませ~んったって、許せるかっつうの!」

 目いっぱい保険金を取ってやろうと大袈裟に痛みを訴える男の隣に腰を下ろして、

「しかし、お互いこの程度の怪我で済んで何よりだぞ。相手も変な人じゃなくてよかったし…。もう少し対向車線にはみ出してたら死んでたぞ」

 もう一人は、不幸中の幸運を喜んでいます。

 事実は、事故で怪我をしただけのことなのです。

 なあんだ、ものは考えようということか…などとあなどってはいけません。これが靖国神社となると、

「A級戦犯を合祀した神社に参拝するのは軍国主義の復活だ」

 などと非難の対象となる一方で、

「戦没者の前で不戦を誓うのは立派なことだ」

 と賞賛する人もいて、紛争の火種になっています。

 事実は首相が神社に参拝しているだけのことなのです。

 近隣諸国との領土問題も、先の戦争が侵略か防衛かの論争も、尊厳死や安楽死の是非も、広島と長崎に投下された原子爆弾の歴史的意義も、自衛隊の合法性も、考えて見れば事実にどんな意味を与えるかの違いによって見解が分かれているに過ぎません。

 事実には何の意味もなく、我々が意味を与えて生きて行くのです。私たちは、本来淡々とした事実に意味を与えては、与えた意味によって一喜一憂したり、離合集散したりしているのです。

 事実に意味を与える作業をもっぱらにしている職業はと言えば政治家でしょう。

「中央集権の時代は終り、地方の時代がやって来ました。皆さんが納めた税は、皆さんのためにこそ使われなくてはなりません。国防と外交以外は、できるだけ中央の関与を排除して、地方は自立を果たさなくてはならないのです」

 と言えば正しい主張のように聞こえますが、

「この自治体の労働者の大多数は、職を求めて田舎から移り住んだ人々です。田舎には老親ばかりが残されて、圧倒的に納税人口が足りません。言い換えればこの町に納入される税は、田舎を犠牲にした人々の就労収入に依存しているのです。自治体を越えて税を適正に配分する仕組みが必要です。納税者も田舎に残して来た老親のために自分たちの税の一部が使われるのは、むしろ望むところであるに違いありません」

 と言われれば、これもまたもっともな主張であるように思えます。

「この国の繁栄を維持しながら、急激な少子高齢化に対応するためには、徹底した行政コストの削減を背景にした民間活力の導入と、それに伴う自己責任の明確化、就労人口の増加を目的とした女性の社会進出の促進と、それを実現するための子育て支援こそが喫緊の課題であります」

 と言われれば、何だか燃料不足の船に帆をかけて、必死に航海を続けなくてはならない悲壮感に駆られますが、

「この国の繁栄は皆さんに幸福をもたらしていますか?増えつづける若者たちがうさぎ小屋に住み、過労死するほど働いて築き上げた繁栄は、世の中をモノと情報に溢れさせた一方で、モラルを破壊し、ゴミの山を作りました。つい最近まで我々は、人口の増加をむしろ不安材料ととらえて、食料がなくなる、水が不足すると怯えていたのです。いつまでも日の出の勢いを維持しようとするから無理が生じます。そろそろ私たちは経済優先ではなく生活を重視して、ゆったりと夕日を眺める成熟した国に針路変更をしようではありませんか」

 と聞けば、それも悪くないなと思います。

 事実にどんな意味を与えるかは、私たち一人一人に任されています。

 それを「創造」と言うのです。

 さあ天下国家のことはともかく、あなたは今日一日、出会う事実にどんな意味を与えてどんな感情を味わうことにしますか?