ボクシングと品性

平成18年05月10日(水)

 野球、サッカー、バレーボール、柔道、相撲、ボクシング、レスリング…。共通項はもちろんスポーツですが、レスリングもプロレスとなると、果たして同列に並べていいものかどうか迷います。ことさら観客の興奮を誘うショーとしての要素が大きくて、スポーツマンシップという点において、いささか異質なもののように思うからです。

 スポーツマンシップを辞書で引くと『正々堂々と公明に勝負を争う、スポーツマンにふさわしい態度』と出ています。スポーツは、勝負という極めてエゴイスティックな領域であるだけに、プレイヤーにはルールを守り対戦相手の人格に最大限の敬意を払う紳士的態度が要求されるのでしょう。それがないと、スポーツ、とりわけ格闘技は、喧嘩と区別のつかない下品極まりない見世物になり下がります。おのれの強さを誇示し、対戦相手を威嚇し、時に反則の凶器を隠し持ち、リング外でパイプ椅子を振り上げることがむしろ期待されるプロレスは、やはりスポーツというよりはショーの範疇に属するのでしょう。

 闘志と敵意とは違います。スポーツマンシップは、対戦相手に対して闘志を抱くことには寛容ですが、敵意をむき出しにすることは許しません。試合を終え、勝者と敗者がお互いの健闘を称えてしっかりと抱き合ったりするシーンを見せつけられると、観客は勝敗を越えて感動します。勝負という偽りのないドラマを実現してくれたことに対して、むしろ敗者にこそ惜しみない拍手を送りたくなるのです。

 ところが、長年そのようであり続けたスポーツの世界に、視聴率至上主義のマスコミが、好ましくない風潮を持ち込み始めました。試合前に人気のタレントグループがテーマソングを歌い、ダンスを躍り、アナウンサーが大げさな口調で煽りに煽ってコマーシャルに繋ぎます。バレーボールのワールドカップを中継する時のテレビの過激な演出ぶりは、屋内競技であるだけに、対戦チームが気の毒になってしまうほどです。相手のホームグラウンドで試合をするという、それだけでハンディを背負っている対戦チームに、できるだけ気分よくプレーのできる環境を作ることが迎える側の品性でしょう。互いに十分実力を発揮できる環境の中で勝敗を決してこそフェアな試合と言えるのではないでしょうか。どんなにマスコミが煽ろうと、バレーボールの場合は、選手たちが厳としてスポーツマンの品位を保っているところが救いです。もしもメンバーの誰かが、相手を醜悪な態度で威嚇したり、試合前に聞くに堪えない表現で罵倒したりすれば、その選手は恐らく大勢のファンを失うことでしょう。観客は、チームの勝利を願いながらも、選手が品性を失って単なる闘争マシーンになることを期待してはいないのです。

 バレーボールはチームプレーですが、個人プレーであっても事は同じです。柔道も、空手も、テコンドーも、レスリングも、選手はスポーツマンシップに則っておのれをよく律します。確か相撲では、勝った瞬間にガッツポーズを取った力士が協会から注意を受けました。土俵に倒れた力士に勝った力士が手を貸して立ち上がらせる風習も、相撲がルールの下での喧嘩ではなく、てスポーツであることの大変解り易い証拠のように思います。力士が土俵に上がる前のインタビューに答えて、対戦相手を口汚く罵るのを聞いたことはありませんし、勝ったあとも息を弾ませながら、運が良かったと述べるのがせいぜいです。勝敗が直接金銭に結びつくプロの格闘技の世界にも、スポーツである以上、選手の品格が重要視されるのです。例えばプロボクシングは…とここまで書いて、はたと考え込んでしまいました。

 プロボクシングはまぎれもなくスポーツですが、昨今のプロボクシングには果たして他のスポーツのように、選手の品格の高潔さは期待されているでしょうか?板尾、原田、渡嘉敷、輪島…。プロボクシングといえば、スポーツ音痴の私にも、ぼんやりとこれくらいの選手の名前が浮かび、リング上の彼らは一様に気高い存在であったという記憶があります。試合前に自分の闘志を語ることはあっても、敵意をむき出しにすることはありませんでした。ましてや相手の人格を傷つけるような発言をしたり、顔を合わせた際に執拗に暴力団まがいの視線を送って威嚇するような真似は決してしませんでした。そんなことをすれば、自分の方が日本の恥だと糾弾されて業界を追われる雰囲気が世の中にありました。それが、ここへ来て変わって来たように思うのです。マスコミはむしろ選手の品性の欠如を歓迎します。大言壮語する姿を英雄視します。選手の言動が、従来のスポーツマンシップを逸脱して、奇抜であればあるほど視聴者の好奇心に訴えることを知っているのです。勝っても負けても視聴率は上がります。あげくの果ては、勝ち誇った選手はリングの上で歌手でもないのに歌を歌い、それが満場の拍手を浴びるところを見ると、観衆も変わったのです。観衆をマスコミが変えたのか、マスコミが観衆の変化に追従したのかは判然としません。判然としませんが、ファイティング原田のひたむきで控えめな態度に感動した時代を知っている者の一人としては隔世の感を否めません。同じ行動様式を身につけた若者が、アマチュアとしてオリンピックを目指すと聞きましたが、国を代表して出場する以上、たとえ頂点を極めても世界の顰蹙を買っては困ります。それは、彼を送り出す国家の品性でもあるのです。

 スポーツも時代の子であれば、人間の品性に価値を置かなくなった世相を反映しているのでしょう。少し前なら眉を顰めるようなフアッションが横行し、信じられないような破廉恥な事件が頻発しています。他人の人格を冒涜するような番組が、視聴率が取れるというただ一点のために日常的に流されて、もはや我々はさらに強い刺激を与えられなければ容易に驚かなくなりました。こんな傾向が加速したのは一体いつからでしょう。

 どんな手段であろうと、視聴率を取った者が勝ちで、どんなに醜悪でも人目を引いた者が勝ちで、犯罪スレスレでも株価を吊り上げた者が勝ちで、偽装された設計でもビルを売った者が勝ちで、サラ金業者と提携してでも利ザヤを稼いだ銀行が勝ちで、政策を語らない不真面目な選挙でも票を取った者が勝ちで…。どうやら世の中は勝ち負けを規範に動き始めたようです。勝つも負けるも自己責任という前提で、なりふり構わぬ競争が奨励され始めたようです。そう言えば、手続きや方法の品性などかなぐり捨てて、自民党が圧勝した選挙がありました。首相の党友や政友だけでなく、かつての総理大臣経験者までが容赦なく斬り捨てられる姿を見て溜飲を下げた国民は、返す刀でリストラの憂き目に遭っています。考えてみれば、自分の所属する政党を「ぶっつぶす」と公言して首相が選挙を戦った時、品性より結果が全ての時代がくっきりと幕を開けたのかも知れません。スポーツマンシップを考える文章のつもりが、書き進むうちに一国のリーダーの姿勢を問う内容になりました。もっともヒトラーでさえそういう見方ができるように、首相といえども時代の子だと言い出せば、議論は振り出しに戻って堂々巡りをし始めるのですが…。