空腹の行列

平成19年01月16日(火)

 健康のために片道一時間を徒歩通勤するようになって、電車や車では見過ごしてしまうものに目が止まるようになりました。

 早朝から開店しているスーパーでは、車の整理をしている初老の警備員が、集団登校する小学生の群れに声をかけています。お早う!元気か、と頭を撫でられて、照れくさそうに通り過ぎる子どもたちの姿を見ると、暖かい気持ちになります。

 公園では、お年寄りたちが手に手にビニール袋を持って清掃作業をしています。繁みに頭を突っ込んで、しばらくもぞもぞしていた男性が、やがて空き缶一つつまみ出した時に見せる満足そうな笑顔はさわやかです。

 体の不自由な女性の車椅子を孫娘が押して散歩をしています。終始無言のままですが、足元から飛び立つ雀の行方を見上げる時は、二人とも同じ表情をしています。

 帰りは時間に制限がありませんから、努めて回り道をして、大都会を探索することにしています。

 お正月の浮かれ気分も収まった一月の十四日…。しっかりと防寒対策をして、名古屋の中心部にある大きな公園を通りかかった時です。目の前を長蛇の列がうねるように続いていました。背後にはライトアップされたテレビ塔が夜空に聳え立っています。何のイベントだろう…と行列の脇をたどる私に、並んでいる人たちの視線が集まりました。みんな一様に黒っぽいジャンパーを着込み、無精髭を生やしています。気が付くと、行列に加わらない人影は私一人です。ちょうど西部劇で、酒場に入って来たよそ者に町の者が敵意のこもった視線を向けるシーンを思い出した時、並んでいるのがホームレスの集団であることに思い当たりました。

 行列が途切れた先の街灯の下には、長机二つとガスコンロがしつらえられていて、十人ほどの人々が、あるいは青い炎の上で湯気を立てる巨大な銀色の鍋をかきまぜ、あるいは夜目にも白い発泡スチロールのどんぶりを手早くテーブルに並べ、あるいはその器に次々と豚汁をよそい、あるいは中央に梅干を乗せたパック入りのご飯を無造作に積み上げています。 長蛇の列は、寒空の下で炊き出しの準備が整うのを今や遅しと待っている空腹の行列なのでした。

「さあ、お待たせしました」

 順番にどうぞという合図の後の光景は、見事なものでした。誰一人先を争うこともなく、手渡される食事と割り箸を粛々と受け取ると、公園内の適当な場所に腰を下ろして黙々と頬張ります。三人の、これもまたホームレス仲間の役員が立って、済んだ器をビニール袋に回収します。黒い影たちが繰り広げる無言劇は、神事でも見るかのように厳かで、息をのんで眺めていると、

「あんたも並べば食べられるで」

 野球帽を被った長身の男性が話しかけました。以下はその男性とのやり取りです。

「皆さん、ホームレスですか?」

「みんなええもん着てるから、そうは見えんやろ?今は十分着られるもんが捨てられてる時代やからな。中には一般のサラリーマンもおるで。あんたも並んで食べたらええ。今日は二百五、六十人集まっとるけど、四百食用意した言うとったから、だいじょうぶや」

「いえ、私はもう…。それより、皆さん、お代わりができますね」

「まあ、二回までやな」

「回数チェックがあるんですか?」

「いや、これを三杯は食べられんやろ。二杯で腹ぽんぽんや」

 男性は立ったまま、時折りふうふうと豚汁を吹いて口に運びます。

「炊き出しをしているのはどういう団体ですか?」

「ブラジル人のプロテスタントや。日本人もおるけど、ま、キリスト教や」

「仏教は?」

「仏教は、自力も他力も、こういうことはせんなあ…救済っての?キリスト教は、自分が救われるためには社会的な活動をせんならんのやろ」

「おかげで助かりますね」

「まあな。けど真面目に空き缶集めたら結構食えるんやで。好きなやつは、それで酒ばっかり飲んどる」

「そうそう、空き缶。あれはいくらになるんですか?」

「つぶしたアルミ缶、大きい袋一杯で、そうやな、四百六十円かな…あ、鉄はあかんで」

「鉄はだめですか」

「鉄は業者が取ってくれん。最近はマナーの悪いやつがおって困る。缶をつぶす場所や時間をわきまえんもんやから、近所からうるさいって苦情が出る。賞味期限切れのコンビニ弁当も、食った後をきちんとしとかんと、二度とくれんようになる。一部の人間やけど、どこにでもおるな、人の迷惑を考えんやつ。長い目で見たら、結局自分の首締めることになるってのがわからんのやろな」

「病気の時は困るでしょう?」

「病気は救急車呼んだらええ。ちゃんと診てくれる。問題は心臓発作とか脳出血とか、自分で救急車を呼べん病気やな。わしら家族がおらんやろ。発見されんのや」

「ホームレス同士、助け合わんのですか?」

「ま、そういうやつもおるで。けど少ないな…みんな一人や」

 話題が家族に及ぶと、男性はふっと、ゆきずりの私に自分の人生の一端を話してみたくなったのでしょう。パチンコに夢中になってサラ金地獄に陥り、妻と諍いを繰り返したあげく家を飛び出したいきさつや、最近、結婚の決まった娘に会いたいと申し出て断られたことを打ち明けて、

「ええとこへ嫁に行ったんや。ホームレスの父親なんかおらん方がええわな」

 自分に言い聞かせるようにつぶやきました。

「生活保護を受けて自立を考えないのですか?住むところも提供してくれるんでしょ?」

「あれはあかん。窮屈や」

「窮屈?」

「きまった時間に起きて仕事に行かんならんがな。現場が遠いと朝五時起きやで、五時起き。この年で五時はとてもかなわん」

「普通みんなそうやって暮らしてますよ。私なんかも毎朝タイムカード押してます」

「六年もホームレスやってるとそれは無理やな。逆に言うと、窮屈が嫌いな連中がホームレスしてんのやろな。事情は色々あるやろうけど、ここにいる連中は全員同じやと思うで」

 シャワーも無料で使える場所があるし、バッテリーを拾って来ればテレビも見える…惨めな格好をしてる連中は、もともとだらしのない性格なんだと、ひとしきりホームレスの快適さを強調した後で、自分は雨露がしのげて近くに飲み水もトイレもある、大変いい場所にテントを張っているのだと少し誇らし気に言い添えて、

「じゃあな」

 野球帽のシルエットは、背中を屈めて公園の暗がりに消えて行きました。

 あんなに大勢いたホームレスの群れはそれぞれのねぐらに散って、再び静寂に包まれた公園に一人取り残された私の耳に、

「一部の人間やけど、どこにでもおるな、人の迷惑を考えんやつ」

 という言葉だけが妙なわだかまりになって残っていました。