厳かな会場

平成19年06月29日(金)

 講演依頼が増えると毛色の変わった会場も色々と経験しますが、山の中腹にある弘法堂の広場にテントを張って、参集した善男善女に話をした時は、どんな深刻な話題も、吹き渡る風に乗ってぱあっと大空に拡散してしまう、ある種の爽やかな無力感を感じました。

 本願寺の本堂に集まった檀家の人々に、阿弥陀如来を背にして天蓋の下で話をした時は、足のしびれと闘う聴衆の最前列で背筋を伸ばす住職たちの、決して笑わない厳しい表情が印象的でした。

 学校の体育館が会場の場合、大抵いいところでチャイムが鳴って、せっかく作り上げた雰囲気が台無しになる可能性は常に覚悟しているのですが、傍らの松の木の枝に子どもがよじ登ったために、聴衆の関心が一斉に窓の外に向いてしまった時は、目の前で展開される現実の迫力には絶対に太刀打ちできない言葉の世界の非力さを痛感して、少なからずくじけてしまったものでした。

 中でも忘れられないのは、セレモニーホールでの講演でした。

 車を運転しながら地図をたよりに会場を探していると、そろそろ右折だな…と思った曲がり角辺りから点々と黒い矢印入りの会場案内の案内板が目に入りました。『渡辺哲雄氏講演会場』と書かれた表示は、しかし、走っているため渡辺哲雄までしか認識できず、知らない人ならきっと、見慣れた黒い矢印から連想して、『渡辺哲雄氏葬儀会場』と判読してしまいます。さらに会場前には、同じ案内を黒々と表記した巨大なプラスチックの立体看板が、根元を四角い枠の植え込みに飾られて高々とそびえ立っていました。

 駐車スペースに車を止めると、

「講師の先生でいらっしゃいますね」

 慇懃にご挨拶をされる職員の服装は黒ずくめです。

「どうぞこちらへお越しください」

 足取りも静かに案内された控え室のガラスケースには、数珠、位牌、蝋燭立てなどの商品見本が並んでいました。

 お茶を頂いて待つことしばし。

 予定の時間になって先導されたホールには、パイプ椅子に腰を下ろした百名を超える聴衆が襟を正し、講師というよりは僧侶の読経を待つ態度です。無理もありません。通常ここは告別式の行われる会場なのです。やがて進行担当の女性が司会席に立ち、独特の口調でしめやかに講師紹介を始めました。

「え、大変、長らくゥ、お待たせ、致しました。ただいまよりィ、渡辺哲雄様による、ご講演を、開催いたしたいと、存じますが、その前に、先生のご経歴を簡単にご紹介申し上げたいと存じます。ェ先生は、昭和二十五年、郡上八幡にお生まれになり…」

 染み付いた職業スタイルなのですね。

 員隠滅滅としたご紹介のあと、静まり返った聴衆が目を伏せる中を登壇する私は、まるで焼香台に向かう気分でした。

 これではいけない!

 気を取り直した私は、ことさらテンションを上げて、やがて会場は例によって涙と笑いに包まれたのですが、

「このホールに、笑い声が響いたのは、初めてのことで、ございます。誠に、ありがとう、ございました」

 会を締めくくる進行係りの口調は、未だ告別式のムードを引きずっていました。

 後で聞いたところ、友引を避けて葬儀を翌日に延期したご遺体が講演会場の二階に安置されていたそうです。