社会的動物

平成19年09月17日(月)

 人間は社会的動物と言われます。福祉が対象にするのは社会的弱者だとも言われます。

 社会的責任、社会的影響、社会的距離、社会的義務、社会的立場、社会的事実、社会的入院、社会的存在…。それが頭につくだけで無視できない質量を感じさせる社会的という言葉の意味が突然気になって、辞書で引いてみると、『社会に関するさま。社会性を有するさま』と出ていて、何のことやらわかりません。それでは「社会」とはどういう意味かを調べると、「人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団。諸集団の総和から成る包括的複合体をもいう。自然的に発生したものと、利害・目的などに基づいて人為的に作られたものとがある」という説明があって、さらに難解になりました。そこで、社会性という項を引くと、「社会全般に関連する性質」という記載があって、どうやらこれが社会的という言葉を冠する様々な熟語の理解に最も都合がいい説明のように思います。社会的動物と言えば、社会全般に関連して存在している動物という意味になり、社会的弱者といえば、社会全般に関連して弱い立場に陥った人々という意味になります。社会的責任といえば、社会全般に関連して発生する責任という意味になり、社会的義務と言えば、社会全般に関連して負うべき責任ということになります。

 それでは、人間が社会全般に関連して存在しているとはどういうことなのでしょう…と、ここまで考えて来たところで、以前から自明なこととして打ち捨てていた事柄がふいに心に浮かびました。それは、人間は自分の需要ではなく、他人の需要を満たすことを仕事にして生活しているということでした。来る日も来る日も、他人の乗る車の製造を生業にしている人がいます。他人が食べる食事の調理を生業にしている人がいます。他人の使用するビルの清掃を仕事にしている人がいます。他人の子供を教育して収入を得ている人がいます。自分とは関わりのない犯人の逮捕に命をかけている人がいます。深夜に呼び出されてまで他人の病気の治療に明け暮れている人がいます…。およそ文明社会を構成する構成員は、自分以外の不特定の他人、つまりは社会全般の需要を満たす営みに参加することで生計を立てているのです。

 同時に人間は、自分の需要の充足の大半を他人に委ねて生活しています。身の回りを見渡してみても、私自身の手によるものは何一つありません。住んでいるマンションも、使用しているパソコンも、テレビも机も本棚もボールペンも、今朝食べたお米から、さっき飲んだコーラに至るまで、おしなべて知らない他人の手によって生産され、運ばれ、販売されたものばかりです。つまり文明社会に暮らす人々は、他人がデザインし、見知らぬ人が作った衣服を身につけ、会ったこともない人が製造した車に乗って出勤しては、自分はというと、自分以外の人々のための物品の製造やサービスの提供に従事しているのです。これを共同生活と言わずして何と言えばいいのでしょう。私たちは、社会という巨大で精緻な網の結び目に身をおいて、他人との関係にどっぷりと依存して共同生活を営む、まさに社会的存在なのです。

 ここに至って冒頭に紹介した「社会」という言葉の意味が、突然日が射したように明らかになりました。

『人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団。諸集団の総和から成る包括的複合体をもいう』

 私たちは工事現場にアルバイトで雇用されて黙々とツルハシ振るうだけで、共同生活に加わっています。生産に従事しなくても、たまたま当たった宝くじの賞金で豪華な家具調度を購入する場合であっても、消費という経済活動に参加するという意味ではまぎれもなく共同生活に加わっているのです。

 豊かな物質文明社会は、実はこの仕組みの中から実現しました。私たちは、車の製造に携わるプロが、もっと美しいデザインを、もっとスムーズな加速をと、知識や技術を蓄積し、しのぎをけずって完成させた車に乗り、同様に、テレビの製造に従事するプロが、もっと薄型に、もっと自然な色にと総力を傾けて作り上げたテレビを観て暮らしています。陶器など焼いたこともない私が、気に入った茶碗や湯呑みに囲まれ、膨大な曲の録音が可能な小さな再生装置を首にかけ、衝撃を吸収する構造が自慢のウォーキングシューズを履いて出かけることができるのは、豊かになったなあ…という感慨だけでは済まされない、生産と消費の網の目の成熟によってもたらされているのです。

 それを可能にしている媒体は貨幣です。貨幣はつまりは紙切れに過ぎませんが、これに絶大な信頼を置くことによって、私たちは何の不安も抱かないで、人生の貴重な時間を他人の需要を満たす作業に費やしています。貨幣という紙切れに対する信頼は、とりもなおさず、それを発行している国家に対する信頼の反映です。それが証拠に、いまここで「トンガリ王国」という見も知らぬ国家が発行した紙幣をコンビニに持ち込んだとしても、恐らく菓子パンひとつ買うことはできません。ともすると私たちは国家に対して被害者意識ばかりを鮮明にしがちですが、私たちの生活を成立せしめている生産と消費の網の目は、国家なくしては片時も存在し得ないのです。そして今や網の目は、グローバル化の波に乗って、世界規模に拡大しました。アメリカや中国の生産や消費の動向が、日本の田舎の自動車部品工場に働く人のおかずの品数に影響を持つようになりました。中国の石油需要の拡大が、ガソリンの値段の高騰だけでなく、代替エネルギーとして消費される植物油の原料の不足を招き、マヨネーズの価格に跳ね返る時代になりました。さらには初めから物やサービスと直接関わるつもりのない大量の貨幣が、利ザヤを求めて海流のように世界を流れ、その圧倒的な水圧は、人間本来の共同生活の網の目をズタズタに破壊する危険性さえ持つようになったのです。

 そのような共同体の一員として、巨大で危うい網の目の結び目毎に、ささやかな私たちの生活が成立しています。人間が社会的動物であるという意味は、現代の私たちの姿に重ねて説明すれば、実にこのようなことであるのです。とすれば、網の目の側のほころびや変化によって引き起こされる生活困難は、個人的問題ではなくて、社会的問題ということになるはずです。社会的問題は社会的に対処しなければなりません。リストラ、ニート、フリーター、貧困、犯罪、自殺、女性の就業による育児困難、介護問題、サービス残業、過労死、夫婦単位の生活形態がもたらす老々介護、孤立死、都市の構造に移動を阻まれる障害者、妊婦、子供、虚弱高齢者、能力給の導入によるストレスと精神疾患…。枚挙にいとまがない昨今の現象が果たして個人的問題なのか社会的問題なのか、しっかりと判断する眼を持つことが、政治、社会保障、とりわけ福祉の在り様を考える原点になるように思います。