シミチョロ

平成19年02月01日(木)

 カシミヤのセーターは軽くて温かい代わりに型崩れしやすく、袖口や首周りがすぐにゆるんでしまうものなのですね。一年振りにクリーニングの袋から取り出してセーターを被ると、わずかに丸首の下着が見え隠れしています。鏡の前で、セーターの襟を持ち上げたり下着の襟を押し下げたりして工夫するのですが、濃緑のセーターの襟元からはどうしても白いものが覗いてしまうのです。このセーターも終りだな…と思った時、学生時代の苦い思い出が蘇りました。

 今で言う合コンで、初対面の女性たちと嵐山を散策した時のことです。私とペアになった女性のスカートの裾からチラチラと、下着がはみ出しているのです。『シミチョロ』と言って、当時それは嘲笑の対象でした。

「あの…下着が見えてますよ」

 三十年も経った今でもはっきりと覚えているのですから、随分と勇気を奮ったのに違いありません。思い切って教えてあげた瞬間から私は露骨に敬遠されました。指摘した側にも配慮の足りなさがあり、指摘された側にも、そこから善意だけを抽出する精神の柔軟性が欠けていたのでしょう。今思えばどちらも初々しいほどの『若さ』であった訳ですが、ここでは、下着というものの位置について思いを巡らせています。

 昔はズボンの腰からカッターシャツの裾がはみ出しているだけで後ろ指をさされました。袖口や襟元から下着が見えれば顰蹙を買いました。女性の肩からブラジャーの紐が覗いているだけで、大袈裟に言えばお里が知れました。ましてや胸元からブラジャーそのものが見えたりしていれば、卑しい関心を浴びたものです。つまり、下着は人目にさらすものではなかったのです。

 それが、いつの間にかファッションになりました。派手なトランクスをわざわざ見せるためにズボンを腰骨より下に履いて町を闊歩する男性の姿は珍しくなくなりました。同様に、極端に股上の短いジーンズの腰から、ショッキングピンクのパンティーを覗かせた女性が、高いヒールの靴音を響かせて町を歩く姿も頻繁に見かるようになりました。重ね着も、下の衣服よりも上の衣服の丈を短くして、内側を見せる演出が一般になりました。

 内側を見せる…。言い換えれば、内と外の区別が希薄になったのです。下着だけではありません。『飲食』も『化粧』も『接吻』も『うわさ話』も『身内の恥話』も、本来は内側の行為でしたが、ぞろぞろと日の当たる場所に出てきました。うわさ話や身内の恥に関しては、それを電気仕掛けの箱を通じて連日全国にまき散らす職業さえあるのです。内と外を区別していた垣根が崩れたのですね。

 ニワトリが先かたまごが先かはわかりませんが、個人同様、家庭も会社も国家も、内と外を画する境界があいまいになって、内部告発は巨大な企業を崩壊させ、政治家や公務員のスキャンダルを暴き、そのことが行政機関を含む組織というものに対する信頼の失墜を招いて、ついに教育基本法の中に愛国心を謳わなくてはならないほど、国民から国家の構成員であるという自覚や誇りまで失わせてしまいました。絶世の美女の体内にも排泄物が詰まっているように、高級料亭の厨房にもゴキブリがいるように、花屋の裏庭にも売れ残って腐った花の山があるように、人間の営みには常に他人には見せられない暗部がつきまといます。それを白日の下にさらせば、見た者が否定的な感情に支配されるのは当然です。「透明性」というレッテルを貼られた社会の実態は、レッテルの持つ明るい響きとは裏腹に汚辱に満ちているものなのです。ことの重大性によって、関係者、つまり身内の範囲は違ってきますが、シミチョロは、そっと本人に伝えて改善させるのが最良なのであって、こっそり撮った写真を公表し、

「だらしない女だ」

 と連日不特定多数に向かって糾弾する必要はありません。特異な事件を起こした特殊な人間の『身内の恥』を、教訓の範囲を越えて暴き立てる必要もありません。一部の不心得な警察官や教員や食品会社の不祥事を、さも全体の質が低下しているかのような危機感を煽って騒ぎ立てることの意義と弊害を考えなければならないと思うのです。

 隠蔽を支持しているという誤解は避けなければなりませんが、コミックソングにあったように、透明なバキュームカーは走らせるべきではありません。しかし一方で、下着をファッションにしてしまった以上、本来なら人目にさらされない人間の暗部ばかりを見せつけられる社会で生きる覚悟を強いられているのかも知れないとも思うのです。