水槽の世界

平成19年12月19日(水)

 かかりつけのクリニックの待合室に立派な水槽があって、色とりどりの熱帯魚が患者の目を楽しませています。

 そういえば、かつて勤務していた県立病院の待合室にも水槽がありましたが、生き物の管理は難しいのでしょう、いつの頃からか映像の水槽に変わりました。映像といっても平面ではありません。どの方向から見ても水に空気の泡が立ちのぼる本物の水槽なのですが、水は二重になったガラスのごく表面部分だけに注入されているらしく、中に配置された岩も砂利も海草も盛んに泳ぎまわる複数の魚たちも、全てが映像なのです。それが立体的に連続しているのですから、初めて見た時はもの珍しさで人だかりができました。

 しかし生き物には基本的に生き物同士の共鳴装置があるのでしょうね。そして、生きている…つまりは、やがて死んでゆくという事実が持つはかなさや、厳かさや、たくましさは、映像では絶対に表現ができないものなのでしょうね。どんなに精巧にできていても、映像に感情移入はできません。やがて飽きてしまって、振り向く人もいなくなりました。

 そこへ行くとクリニックの水槽は本物の熱帯魚です。私は診察を待つ時間が楽しみになりました。それにしても自然というデザイナーの腕の見事さはどうでしょう。赤、青、黄、黒の原色を、ストライプに、水玉に、あるいはツートンにあしらって、水槽の中で鮮やかなファッションショーを展開しています。アイディアに行き詰った服飾デザイナーは、水族館に足を運べば素晴らしいヒントが得られるに違いありません。赤い魚を青い魚が追いかける反対方向から黄色い魚がゆっくりとすれ違い、岩陰からオレンジの縞模様の小さな魚が顔を出します。しばし我を忘れて眺めていると、中に一尾だけ、ムツゴロウの様な形をしたコリドラスの仲間がいて、水槽の底や岩に付着した汚れを食べています。これが保護色の皮膚を持っているらしく、白い砂地に移動すると見る見る白い色に変色し、黒い岩場に移ると瞬く間に黒い魚に変身するのです。努力して皮膚を変化させているとも思えませんから、目から入った周囲の色彩が、特殊な神経作用で皮膚の色素細胞に働いて素早く色を変えるのでしょう。以前新聞に、都会の女子の方が、田舎の子に比べて初潮の時期が早いのは、ネオンサインに代表される原色の視覚刺激が影響しているのではないかという記事が紹介されていましたが、保護色ほど鮮明ではないだけで、「見る」ことが身体に与える影響は研究に価するかもしれません。

 私が子供の頃の日本人は、背も鼻も低く、足が短い割りに頭が大きくて、目は一重まぶたのずんぐり体型というのが典型でしたが、最近の若者の体型は急速に欧米化したように思います。集団登校をする小学生の中には、ランドセルが不釣合いなほど、スラリとした長身の子供が珍しくありません。私が生きている間に起きている変化であることを思うと、民族の体型はダーウィンの進化論的速度を超えて、ごく短期間に進行していることになりますが、ひょっとするとそれは、テレビ画面やグラビアに登場するカッコいいスターやモデルを、あんなふうになりたい…という強い憧れを持って民族レベルで見続けたことの結果であるかも知れません。

 話しが逸れました。

 水槽には他の魚に比べれば格段にサイズの大きな熱帯魚が三尾います。一尾は白地に黒のまだら模様で身体には厚みがあり、あとの二尾は一部を黒く塗り分けた黄色の魚ですが、同じ種類ではない証拠に、一方の魚がちんまりとしたおちょぼ口をしているのに対し、もう一方の魚の口はヒョットコのようにぐいと前に突き出ています。しばらく眺めているうちに、どうやらまだら模様とヒョットコの二尾がおちょぼ口をいじめているらしいことに気がつきました。おちょぼ口が近づく度に、あとの二尾はおちょぼ口の体をツンと突付いて威嚇します。魚のすることですからいじめといってもこの程度のことなのですが、これが執拗なのです。まだら模様に突付かれてひらりと体を交わしたおちょぼ口は、泳いだ先で今度はヒョットコに突付かれて再び体を交わします。その繰り返しがおちょぼ口の日常なのです。これまた魚のことですから表情は変わりませんが、魚も生き物である以上、原初的な感情があるとすれば、水槽という逃げようのない閉鎖社会の中で四六時中仲間から攻撃を受け続けるおちょぼ口の気持ちはいかばかりでしょう。何か原因があるのでしょうか。例えば醜いとか、汚いとか、臭いとか。例えば生意気とか、冷たいとか、非常識とか。例えば不誠実とか、自分勝手とか、失礼とか…。しかし、未分化な生を営むだけの熱帯魚に高度な理由は考えられません。恐らくは何となく目障りで、何となくイラつく相手なのでしょう。その遠因として、過密で変化のない水槽生活がもたらすストレスが存在するとしたら、他人事…いえ、他魚事ではありません。

 満員電車、過等競争、多様な価値の共存、便利さが奪う生活の手応え、全人格的な関係の喪失、生産性と成績だけに与えられる評価、連日人間の暗部ばかりをあぶりだす報道…。明確なターゲットを持たないストレスが、熱帯魚レベルの反応として、何となくイラつく対象への攻撃となって表面化した結果、昨今の理不尽な事件があるのだとしたら、我々も水槽の魚と変わりません。

 翌月、通院の折りに水槽を覗くと、おちょぼ口の熱帯魚は相変わらずひらりひらりと逃げ惑っていましたが、さらにひと月が経って診察に出かけた水槽にはおちょぼ口の姿はありませんでした。そして、見た目にも少しゆとりのできた水槽を、まだら模様とヒョットコが悠然と泳いでいたのです。