近代国家のリスク

平成19年12月23日(日)

 近代国家の定義は様々かも知れませんが、個人の権利を最大限尊重するという価値を中心に運営される社会体制というふうに考えると、「差別」というものが払拭されるべき悪であることが解ります。個人の「人権」、つまりは「意思」、具体的には「自由」を、不合理に制限する行為こそが「差別」だからです。しかしこの差別の不合理性を検証し始めると、これがなかなか一筋縄では片付かないのです。

 例えばサウナの入り口ではよく「入れ墨の方お断り」の貼り紙を見かけますが、刺青を入れた個人の、入浴したいという自由を、こういう形で一律に制限するのは差別でしょうか?区別でしょうか?差別ではないと言う側の見解は、刺青を入れる時点で将来その種の制限を受けることは覚悟しているはずだというのが論拠のようですが、例えば、刺青を入れて一度は危ない組織に所属していたことがあるものの、今ではすっかり更生して真面目に暮らしている人もいるはずですし、反対に刺青などは入れていなくても、違法行為や迷惑行為を繰り返している人もいるはずです。相当数の例外があるという意味で、刺青がそのまま危険な人物であることの証のように扱うことには合理的な理由はありません。しかし刺青を入れた客の存在が一般の入浴客に敬遠されることも事実です。刺青客の一律拒否が、一般客の減少を警戒しての経営判断だとすれば合理的と言えなくもありません。ましてや若い人たちの間で流行しているタトゥーと称するファッション系の刺青を、背中から二の腕にかけて彫り上げた昇り龍と同様に扱うかどうかは議論の分かれるところでしょう。

 しかし、これが刺青ではなくて前科となると事態は違って来ます。求人をしたところ一人の採用枠に二人の応募があって、一人の職歴の空白に傷害罪による服役の過去が明らかになったとしたら…。恐らく前科は就職に際して不利益に働くことが想定されますが、面接で犯罪暦の有無を聴取する煩を避けるために、求人の段階で「前科者お断り」と表記するのは差別でしょうか?区別でしょうか?刺青を断るサウナの場合と本質においてどう異なるのでしょうか?

 広々としたバリアフリーの喫茶店が開店しました。当然のように車椅子の客が増えました。そこに行けば仲間がいて、しかも居心地が良い訳ですから滞在時間がどんどん長くなって、結果として一般客が減少してゆく現実に危機感を抱いた経営者が、「車椅子の方お断り」の貼り紙を出したとしたらどうでしょう。当然これは差別ですが、経営判断という意味で刺青の場合とどこが違うかと問われれば答えに窮するところです。

 ふらりと入った寿司屋の店員にチック症状があって、寿司を握りながら時折り「ワ!」と奇声を上げるので、カウンターにいた私は随分驚いたものですが、もしもクラシックコンサートの会場で彼と出会ったとしたらどうでしょう。演奏の途中で彼が発する奇声は、聴衆はもちろん演奏者にとっても不快に違いありません。しかし複数の聴衆からの苦情に対応した主催者が、「チックの方お断り」などという貼り紙をすればどうでしょう?恐らく轟々たる差別のそしりを覚悟しなければなりません。

 人格的に問題のある犯人が、複数の市民を射殺して自殺した事件について、本人の挙動が不審である旨の通報があったにもかかわらず銃の所持を許可した警察の判断の適否が問われていますが、反対に通報を根拠に許可を与えられなかった本人が、不当な扱いに対する憤懣を遺書にしたためて、その時点で自殺したりすればどうでしょう?今度は警察による差別が糾弾されて責任者の処分に至ったことでしょう。

 差別に関する問題は、こうして挙げて行けば際限もありません。しかし最近この話題について法律に詳しい専門家と意見を交わす機会があって、

「それは近代国家の抱えるリスクですよ」

 と言われた時、突然レンズの汚れを拭ったようにくっきりと視界が晴れました。

 つまり、個人の権利を最大限尊重するということを社会の価値として是認した以上、好ましくない人物の銃の所有から、敷地内に山のようにゴミを集める性癖に至るまで、できれば遭遇したくない多様性との同居は、近代国家が背負うべきリスクなのです。差別をしないということは、近代国家の構成員が、個人の内面は別として、システムとして厳守すべき社会規範なのです。そして、ハンセン病の元患者団体の宿泊を拒否したホテルが敢え無く倒産したように、あるいは、使用頻度の少ない障害者用の客室を密かに一般用の部屋に改修して使用していたホテルが連日社会的批判の標的になったように、規範から逸脱すれば存続が許されないほどの社会的制裁を受けるということそのものが、成熟した近代国家が構成員に課す最大のリスクになっているのです。

 しかし、差別してはならないという命題をイデオロギーのように個人の内面にまで強要すれば、私たちは昇り龍のお兄さんとニコニコ並んでサウナに入らなければなりませんが、そんなことはありません。個人の内面は別として…という意味は決して小さくはないのです。危険人物と判断すればさりげなくその場を離れる自由もまた、近代国家は我々に保障しているのですから。