平成19年12月30日(日)

 悲しいことに、そして不名誉なことに、今年を表す一文字は「偽」でしたね。

 振り返ってみると、インド洋上での自衛隊の給油量は事務上の誤りなのか、意図的な改竄なのか依然として不明ですし、自殺した松岡農相の事務所費疑惑も、「何とか還元水」のまま闇に葬られました。守屋前次官が家族ぐるみで受けた接待は、当初主張していた友人としての付き合いをはるかに超えたものであることが明確になりましたし、安倍首相は立派な公約を果たそうともしないで退陣してしまいました。社保庁だけでなく、市町村の年金窓口でも公務員による不正が次々と発覚しましたし、名古屋市では既に過去のものになった感のある裏金問題が、暮れになってまたぞろ表面化しました。

 政治や行政の偽りも華やかな年でしたが、民間も偽装一色に終始したように思います。

 「あるある大辞典」という番組が放送した納豆のダイエット効果が捏造であったことが明らかになり、納豆業界が垣間見た天国は一瞬にして雲散霧消しましたし、コムスンの介護報酬不正受給事件は、業務内容がやさしさを売り物にしているだけに、福祉業界の抱える闇を浮き彫りにして見せました。あれだけ頻繁に流れていたNOⅤAうさぎのコマーシャルは、今では全く聞かれませんし、リンチの事実は無かったと言い張っていた時津風親方は角界を放逐されました。朝青龍の怪我は、解離性人格障害に変わり、いつの間にかにこにこと初場所に復帰して、仮病の疑いについては不問に付された感がありますし、亀田兄弟の試合の裏側にもマスメディアを含めた釈然としない噂がささやかれています。食品関係の偽装に至っては、不二家、白い恋人、ミートホープ、赤福、お福餅、比内鶏、宮崎地鶏、霜降り馬刺し、名古屋コーチン、納屋橋饅頭、マクドナルドのサラダ、船場吉兆…と枚挙にいとまがありません。

 ニュースを聞く度に、日本人の質はこんなにも落ちてしまったのか…と嘆いたものですが、一年どころか二十世紀を振り返り、「偽」の体質は今始まったことだろうかと考えて見たら、全く違った世界が忽然と見えて来ました。

 大本営発表は偽りの連続でした。天皇の戦争責任も曖昧です。石炭疑獄からロッキード事件、リクルート事件に至るまで、政治に偽りは付き物でした。国家規模の疑獄だけではありません。我々は、地方の土建屋が談合という形で繰り返す政官財の癒着構造を、暗黙裡に了解して生活していたように思います。つまりこの種の偽りはさほどの罪悪感を伴わない必要悪、あるいは慣習、あるいは処世の知恵として昔から存在したのです。前の客が手をつけないで残したパセリやレモンは、恐らく次の客の皿に乗ることを想定はしながらも、追及はしないでおくことが「おとな」の行動として歓迎される風土の中で、お互いの「偽」を温存しながら穏やかな日常を営んでいたのです。

 それが主に内部告発によって次々と露呈する時代になりました。民族の体質に重大な変化が起きているのでしょうか?いいえ、そうではありません。構造改革によってもたらされた、派遣社員、契約社員、アルバイトなどの労働形態格差と、結果としての所得格差が人を内部告発に走らせているのだろうと思います。かつての終身雇用と年功序列体制が作り出す会社に対する帰属意識は、運命共同体として社内の偽りを組織ぐるみで隠蔽する機能を果たしていましたが、構造改革、言い換えれば大胆な規制の緩和によって組織の凝集性は崩れ去り、今や帰属意識の稀薄な負け組が、勝ち組の行っている旧態然とした偽りを暴いて不遇感を解消する事態が頻発するようになったのです。通信機器の発達が告発を容易にしました。メールの持つ匿名性が告発という裏切りの垣根を低くしました。スキャンダルを商うマスコミ産業が、告発に正義の名分を与えました。世の中に偽りは無い方が良いに決まっていますから、いい傾向か悪い傾向かといえば、いい傾向に違いありません。違いありませんが、大変落ち着かない社会であることも確かです。そして考えてみれば互いの権利義務関係で成立する近代社会は、本来、緊張感に溢れた落ち着かない社会であって当然なのでした。

 戦後民主主義が未だ多分に建て前である様に、和服の上にスーツを着たような形で近代国家の民に成りすましていた私たちの正体が露見しています。それが「偽」の本当の意味だったのだと思います。政治経済の構造改革が、思わぬ意識改革をもたらしています。「偽」の年の終りに当たって、これを人心の荒廃と片付けないで、ようやく近代国家に生まれ変わる脱皮の苦しみと位置づけて新しい年を迎えたいと考えるのです。