シロアリ

平成19年03月13日(火)

 東京の息子が読みたいと言う本が、確か私の書棚にあったので送ってやると安請け合いをして電話を切ったものの、何度探してもその本が見当たりません。期待しているだろうと思うと約束を違える訳にもいかず、何よりも父親が読んだ本に息子も興味を持ったということが嬉しくて、翌日書店に出かけて行きました。

 おびただしい書籍の中から目当ての本を見つけ出してレジに行くと、私の前には初老の男性が一人支払いを待っていて、若い男の店員がA四版のカラフルな雑誌を包装紙に包んでいる最中でした。ところが不慣れなのでしょう、雑誌がうまく包めません。包装紙の余計な部分を折り込んだり、雑誌の向きを変えたりして様々に工夫するのですが、体裁よく包めないのです。店員はやがて、意を決したように折り込んだ部分を元にもどすと、折り目に沿って丹念にハサミで切り取りました。そして、あっちを折りこっちを折りする度に粘着テープで止めて、ようやく一冊を包み終える頃には、私の後ろには四人の客が本を手に並んでいました。包装しろなどと厄介な注文をしたために、自分の後ろに五人もの客が並んでいるのだと思うと気が引けるのでしょう。初老の男性は、身じろぎをしないで背中を丸めています。コンビニで、弁当の温めを頼んだ後ろに支払いの列ができた時のバツの悪さを思い出して、私は少し男性が気の毒になりましたが、彼の支払いが済みさえすれば、次は自分の番だと思った私の予測は大いに外れ、店員はやおら次の雑誌の包装に取り掛かったのです。

(まだあるのかよ!)

 こうなると話は別です。

 後ろでレジを待つ客たちの表情も明らかに気色ばんでいます。

「あ…私の包装は後回しにして、どうぞ皆さんのレジを先に済ませてください」

 そう言って譲るのが常識ってものでしょう。気の利かない男にうっかり同情をしてしまった自分に腹を立てながら、私は店員に要求しました。

「別の店員さんは居ないのですか!」

 すると、ちらっと私を見た店員は、一言も言葉を発せずに素早く壁のボタンを押して、再び包装作業に取り掛かりました。間もなくボタンの知らせでやって来た別の店員が、これまた無言でレジに立ちましたが、驚いたのはその後でした。初老の男性は、持っていた文庫本を差し出して払いを済ませると、さっさと書店を立ち去ったのです。ということは、包装しているのは彼の本ではありません。店員は、レジで並ぶ私たちを待たせたままで、せっせと自分の仕事をしていたのです。要求をしなければ、私たちは罪のない初老の男性を恨めしく思いながら、辛抱強く並び続けていたに違いありません。

 これだけの出来事ですが、私は偶然覗いた我が家の床下が、シロアリに食い荒らされていた時のような不気味な衝撃を感じました。

 私たちの社会は、床下で、何かがじわじわと変質しているのです。

 客が並んでいても平気で包装作業に専念していた若い店員は、恐らくレジの担当ではないのでしょう。しかし、別の店員を呼ぶつもりはありません。呼べば呼ばれた店員との間に何らかの緊張関係が生じます。お前がやれよと言われてもレジが打てないのかも知れません。だったら早く覚えろよと言われるのも困ります。恐らく別の場所で忙しくしている先輩との関係に波風を立てないためには、客に命じられてのっぴきならなくなるまでは、関わらないのが一番いいのです。

「すいません先輩、客がレジの係を呼べってうるさかったもんですから…」

 そんな言い訳が成立するまでは、ボタン一つ押せなかったのです。

 呼ばれてやって来た店員も同様です。彼は別の仕事に従事していたためにレジが留守になったのであって、客を待たせたのは不可抗力なのでしょう。お待たせして済みませんの一言もありません。言えば客との間に何らかの緊張関係が生じます。反応がなければ謝罪の言葉が宙に浮きますし、レジを留守にしちゃだめじゃないかとは言われたくありません。そして何よりも不気味なのは、長時間理不尽に並ばされた客たちが無言なのです。私とて、別の店員さんは居ないのですか!と要求するのが精一杯で、それ以上の抗議はしませんでした。抗議をすれば抗議された店員との間に緊張関係が生じます。申し訳ありませんでしたと口先だけの返事が返ってくれば、却って不愉快ですし、心の狭い人だと思われるのは心外です。

 シロアリの正体が見えて来ました。

 他人との緊張関係を極度に恐れる感情…。つまり、「臆病」が、現代社会の床下をじわじわと蝕んでいるのではないでしょうか。

 若者はヘッドホンで耳を塞いで、他人との関わりを遮断しています。同じフロアーで顔を合わせているのに、職員はメールでやり取りをしています。授業の後で意見や感想を求める教員は、重苦しい沈黙に耐えなければなりません。こっそり教室に入って来て、そっと教室を出て行く学生は、遅刻の理由も早退の訳も告げません。私的にはぁ…とか、ちょっと寒いかも知れない…とか、コーヒーになります…とか、会話は語尾を曖昧にして責任を取りません。民主主義国家であるにもかかわらず誰も支持政党を明らかにせず、憲法改正が政治日程に上っても九条に対する話題を避け、子供の「供」や障害の「害」の字が差別的だと言われれば、差別の内容には関心を示さないまま諾々と平仮名表示をし…。要するに人とも事態とも決してしっかりと向き合わないのです。そのくせ掲示板は匿名の中傷で溢れ、世は内部告発の嵐です。化粧、露出、ヒールの音、路上の食事、歩行中の喫煙、車内の抱擁…。公衆という、誰とも直接向き合わなくていい場面では恐ろしく大胆です。全ては「臆病」というシロアリが原因だとすると、その発生源を突き止めて退治しなければなりません。

 教育?テレビ?政治?経済?産業構造?それとも豊かさ?毎朝、駅に吐き出される大量の人の群れのほとんどが、食料を生産しないで飽食の時代を生きています。コンクリートの街で、迷路のようなシステムと操作された情報に依存して、自然とすら直接向き合わないで大量の欲望の開放と制御に成功した文明社会にあって、対人関係だけが生き生きと直接的であることは困難なのかも知れません。「臆病」が、作り上げて来た環境に適応する姿なのか、それとも不適応の症状なのか、ここから先は立ち止まって考察するのではなく、意志を明確にして変化することが求められているのではないでしょうか。