卒業式

平成19年03月26日(月)

 すべからく式典は厳粛であるべきという校長の意向は、全ての職員によく行き渡り、私の勤務する専門学校の卒業式は、毎年その厳かさで定評があります。

 校歌斉唱、卒業証書授与、成績優秀者の表彰と続いたあと、花嫁の父さながらに正装した校長が切々と読み上げる式辞は、いやが上にも惜別の情をかき立てます。しわぶきをするのさえためらわれるような静寂を、カメラマンのシャッターの音だけが、時折、無遠慮に破っては移動します。在校生の送辞に応えて、卒業生代表が声を震わせながら答辞を読み上げる頃には、感極まった教員が思わず目頭を押さえる…というのが式典のクライマックスなのですが、今年の卒業式にはちょっとした異変がありました。

 介護福祉士科の二名の女子卒業生が、目を見張るようなファッションで参列したのです。

 綿菓子のように逆立てたカラフルな髪。マタニティと見まがうばかりに、胸から下で広がった薄手のコスチューム。両眼の周囲を飾る人工的な睫毛。頬には金属片のような粉末がキラキラと光り、耳にも胸元にも手首にも、ことさら幼さをアピールしたデザインのアクセサリーが揺れています。

「先生これ、ロリータファッションって言うのよ、知らないでしょ?すごい出費だったんだからね」

 衣装も美容院も大幅な予算超過であったことを自慢してにっこり笑う二人には、精一杯おしゃれをしたという自負はあっても、悪びれた様子はありません。黒いスーツの集団にあって、振り袖に袴姿の女子学生も鮮やかですが、二人並んだロリータたちが放つ場違いな華やかさは、他を圧倒して注目の的でした。そして、

「卒業証書授与!」

 名前を呼ばれて、元気よく立ち上がった男子学生がさらに参列者の注目を集めました。頭髪の中央が、まるでオンドリのトサカのように立っています。卒業生代表という栄えある役割を立派に果たすために、どうやら彼は、とびきり念入りにトサカを立たせて来たのです。証書を受け取る表情は硬直し、指先が震えています。その様子からは、厳かさにはつきものの好ましい緊張感が伝わって来ますが、深々とお辞儀をした頭部の先端が尖っているのです。

「いやあ、驚きましたねえ、校長…」

「しかし、あれはあれで、卒業式のために、精一杯真面目にお洒落をして来たんだぞ」

 校長の顔には、時代が変わったのだという感慨が表れていました。

 以下は教員室での会話です。

「それにしても、すごい格好でしたよね」

「確かにちょっと派手でしたね(笑)。でも私は、あのおおらかさを、ある意味、羨ましく思いましたよ。ああいう場で他人と違う服装をするのって、私にはできそうもありませんからね」

「おおらかさと非常識の境界は微妙ですよ。結局、卒業式を軽んじているとも見えますからね。彼らも就職試験には髪を黒くして、リクルートスーツを着て行くんでしょう?ちゃんと使い分けてるんですよ」

「いえ、使い分けているというよりも、彼女たちにとって、あれは晴れ着なんだと考えた方がいいんじゃないですか?就職試験には振り袖は着て行きませんからね。晴れ着の概念が変わって来たのですよ」

 なるほど、晴れ着ですか…と答えはしたものの、私の胸には釈然としない思いがくすぶっていました。晴れ着も程度問題だと思ったのです。あれも晴れ着だ、これも晴れ着だという論理を押し進めてゆけば、極端な例ですが、本人の姿勢さえ真摯であれば、水着でも着ぐるみでも構わないことになるではありませんか。

 聞けば、トサカの彼の成績は卒業生の中でもトップクラスでした。二人のロリータたちは、素直な人柄で誰からも愛されていました。

「とってもいい子たちですもの。格好はとにかく、体が不自由になったら、私はあの子たちの介護を受けたいですね」

 彼らをよく知る教員の一言は、微妙な対立をはらむ議論に見事に終止符を打ちました。福祉の世界では、人間を外見で測ることこそ厳に慎むべきことなのです。暗にそれを指摘されたのだと理解しながら、それでも私の気持ちは晴れませんでした。

 葬儀の席で冗談を言えば、たとえそれが遺族の悲嘆を慰めようという真面目な動機であったとしても、恐らく顰蹙を買うでしょう。眉を剃り豹皮のジャンパーを着て募金に立てば、たとえ募金の趣旨が崇高であったとしても人は避けて通るでしょう。言動や服装が、その人間の意思や見識の表現である以上、人が外見で測られることもまた事実なのです。

 自由という価値が君臨する時代にあって、教育が、美醜とか常識とかいった、善悪で測ることのできない価値を扱う時の困難がここに存在します。昔なら、「そんな格好はするな!」という一言で解決した問題が、「何でいけないの?」という問いに答えられない以上、個性として認められるのです。外見などに左右されない人間の本質に寄り添う姿勢を養うことは、福祉教育の最も大きな使命なのですが、一方で社会は、表現した個性に相応しい評価を容赦なく下す場であることを教えるのもまた、教員の果たすべき使命のように思います。彼らを一人前の介護福祉士として社会に送り出す側としては、あまりに周囲と離れて個性的であることのリスクを、在学中に叩き込むようにして教えるべきなのでしょうか。それともそれは、表現の自由という海の上で、苦い経験を積み重ねながら、彼ら自身が学習すべきことなのでしょうか。

 今年もたくさんの若者たちが介護の専門職として巣立って行きました。卒業生を送り出した学校には、しばらくは、あるじを失ったような寂しさが漂います。式典の行われた教室に立つと、卒業生の凛々しい答辞の一節が蘇ります。そして、尖った頭髪でお辞儀をする卒業生代表の緊張した表情や、衣装を自慢する彼女たちの屈託のない笑顔を思い出す度に、彼らの本質が、そのおおらかさゆえに、厳しい社会の中で誤解を招くことのないよう祈らずにはいられないのです。