マスクの効用

平成19年03月30日(金)

 胸弾む桜の季節は、花粉アレルギーを持つ者にとっては、うきうきと鬱陶しい季節です。

 水温み、心も軽くなる一方で、鼻はぐずぐず目は痒く、首から上の不快感は、心を浮き立たせる桜の花さえ恨めしく思います。

 こうなったら格好など構ってはいられないとばかり、長い間抵抗し続けていたマスクをつけて出勤してみて気がついたことがありました。しばらくは周囲から見られているような気恥ずかしさに襲われましたが、やがて誰も私のマスクなどに関心がないことが判ると、鮮やかに立場が逆転して、世の中を見る側に回ったのです。いつもなら目を背けてしまう女子高生の視線も平気です。じろりと無遠慮に人を見るおばちゃんたちにもたじろぎません。つまり、マスクで顔を隠してみると、天井裏に身を潜めて部屋の様子を窺う忍者のように、世の中から隔絶しているのです。

 どうやら、顔を隠すことには思いがけない効用があるようです。

 強盗がストッキングで顔を隠すのは、もちろん素顔を曝さないことが目的ではありますが、隠したとたんに、本来の自分を超えた大胆な衝動に支配されて、思いがけない凶暴さを発揮してしまうということがあるのではないでしょうか。暴走族がヘルメットを被るのは、頭部の保護が目的ですが、すっぽりと顔を隠したとたんに運転は乱暴になって、カーブでもアクセルを踏んでしまうということがあるのではないでしょうか。自信のない手術に挑む若い外科医が、青い手術帽とマスクで顔を覆うと、患部を切り裂くメスさばきにためらいがなくなるということがあるのではないでしょうか。

 それやこれやから類推すると、顔を隠さないまでも、加工することで、人はマスクをつけたのと同じ種類の大胆さを手に入れるように思います。女性の化粧は濃ければ濃いほど、大胆さは言動にまで及ぶことでしょう。同様に男性も、眉を細め髭を蓄えて、小鼻の脇にピアスを光らせれば、ストッキングで顔を隠したのと同程度には別人になるように思います。顔を加工した若者が増加している現状が、自由という価値の蔓延した証拠なのか、はたまた臆病から逃れようと努力する姿なのかは解りませんが、意識に上る動機は単なる流行に従っただけであったとしても、結果的に自己の統御能力を超えた大胆さに支配される若者が増加しているのだとしたら、いい意味でも悪い意味でも、社会は穏やかさから遠ざかることでしょう。

 雨が降りました。久しぶりにマスクを外して戸外に出ると、裸に剥かれたようなきまり悪さに襲われました。そして私はいつの間にか、コンビニの前でたむろする女子高生の視線に目を伏せ、無遠慮なおばちゃんたちからも顔を背ける、気が弱くて安全な小市民に戻っていたのでした。